森永さんは1月28日に亡くなられました。令和6年12月の取材をもとに連載します。
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《毎日新聞の記者だった父、京一氏のジュネーブ勤務が終わり、一家で帰国したのは昭和44年。小学6年生のときだった》
私は目黒区立鷹番小学校に戻りましたが、帰国後もいじめられました。太っていたし、外国帰りで日本語があまりできず、成績も1か2ばかりだったので。
それに外国で身についた積極性が災いした。授業中、先生が話すそばからすぐ質問をして授業をさえぎってしまう。「先生、灌漑(かんがい)ってなんですか?」とかね。質問ばかりなので、先生にも級友にも嫌われました。
あるとき、「皮肉ってなんですか?」と質問したら、先生が怒ってしまって「森永くんってスマートね。これが皮肉よ」と言われた。傷つきました。よく分かる説明だったけれど(笑)。
《成績は伸びなかった。しかし、2学期の終わりにある出来事が起こる》
通知表をもらって、その場で開いたら、理科に「5」がついていたんです。もううれしくて、走って帰ろうとしました。でも、どう考えても私の評価が5になるわけがない。不正はいけない。100メートルほど行ったところで足が止まってしまった。
学校に戻って、担任に「これ間違っています」と言ったんです。すると、先生がにっこり笑って「もうすぐ卒業でしょう。あなたに一度5をみせてあげたかった」と言うんです。こんなにうれしいことはなかった。この出来事が後々、私に与えた影響は非常に大きかったんです。
《45年、小学校卒業とともに、一家は新宿区に転居する。同区立落合中学校に入学した》
中学生になって、住んでいるところも、学校も、友人関係も完全にリセットされた。
そんなこともあって、5を取ったことに味を占めて、ちょっと勉強してみたんです。すると、小学校ではクラスでビリから2番目だったのに、いきなりトップになった。うれしかった、というより拍子抜けしました。「こんなに簡単なの?」という感じ。
《そこから森永少年は、生まれ変わったように猛烈に勉強に打ち込み―》
いや、猛烈ではなく、ひたすら「効率的」にやりました。東京大学に入って驚いたんですが、みんな受験勉強を1日8時間くらいやっていたという。私は2時間くらいしか集中力が続かなかった。
《1日2時間の勉強で、どのようにして東大に合格したのか。その秘密は、というと…》
模試を受けまくりました。受けた後が大事なんです。間違えた問題だけを勉強する。「試験に出やすくて自分が分からない部分」が効率的に見つかるわけです。できたところは一切やらない。意味がありませんから。
私は受験のテクニックが人よりはるかに優れていた。選択式なら、全く知識のない問題でも、8割ぐらいの正当率でした。どうやったかというと、出題者の心理を徹底して読んでいたんです。
4つ選択肢があるとします。当然、出題者は正解を知っていて、それを基にほかの間違いの選択肢を作るはずだと。自分なら間違いの3つの選択肢をどう作るか。例えば「白」が正解なら反対の「黒」を思いつく。さらにほかの色を並べる…。そこには一定の思考パターンが現れるはずです。それを読むことができれば正解が分かる。この技術は、ずいぶん磨きました。
ただ、世界史など、長期間かけて積み重ねる必要がある科目は苦手です。信じてもらえないんですが、私は大学入学後に徳川家康の存在を知りました(笑)。(聞き手 岡本耕治)