《初めてのメイン番組では出演した植木等氏のパワーに圧倒された三宅さん。その悩みは同じ番組で出会った伊東四朗氏が受け止めてくれた》
伊東さんは初めて、「三宅ちゃん、自分の笑いをやらなきゃだめだ」と言ってくれました。
伊東さんは番組のコントでは私の笑いを引き出してくれたうえ、返してもくれた。それまでは半分、三宅裕司がいなかったんでしょうね。ある意味、伊東さんは私の新しい笑いのジャンルを作ってくれた。これには感謝しています。
《昭和60年7月、「大きなお世話だ!」(日本テレビ系)が始まった。ゴールデンタイムの月曜午後7時半からの番組を持つことに。スーパー・エキセントリック・シアター(SET)がコントを30分間行うスタイルだった》
この番組では小倉久寛君が意味もなくロンドンブーツを履いていたり、永田耕一君が設定とは関係なく毎回、放火魔の役というのがウケました。
自分としては「作り上げたコント」ができて、好きな番組だったのですが。そのうち、事務所もテレビ局も「三宅裕司に司会はできないか」って探り始めたんです。
私は司会がやりたいわけではなく、喜劇が、演じる笑いがやりたかったので、ずっと拒否していました。
けれど、制作会社の社長とかプロデューサーとかが説得するんですよ。「芸能界というのは、ちょっと名前が売れると、いろいろな才能を見いだしてくるから、それをやっていかなきゃだめだ」みたいにね。
そう言われると、「司会ぐらいできますよ」って受けて立っちゃう性格だったんで―。
最初の司会は61年10月開始の「テレビ探偵団」(TBS系、日曜午後7時半)という番組でした。
《「テレビ探偵団」は、ゲストが昔見ていた思い出のテレビ番組やコマーシャルを見ながら、エピソードを語ってもらう内容だった》
平均15%だそうですから、今考えるとすごい高視聴率ですよね。
そのころ、とにかく1年間は朝から晩まで(テレビに)出まくるというコンセプトでやろうということで、62年10月からは「おめざめマンボ」(テレビ朝日系、土曜午前7時)という早朝番組が、同時期に「パッパラパラダイス」(TBS系、日曜午前0時半)という深夜番組も始まりました。
「パッパラパラダイス」はコント番組です。「大きなお世話だ!」が終わり、司会が増えてきたので、「演じる笑いをやれる番組をやりたい」と言い出し、散々文句を言って、作ってもらったんでしょうね。僕が怒るものだから。
ラジオ(ニッポン放送「ヤングパラダイス」)は午後10時から午前0時のヤングタイムと言っていた若い人が中心の時間です。
テレビは「大きなお世話だ!」も「テレビ探偵団」もゴールデンタイムです。当時はお茶の間でみんなが見ている時間ですから、幅広い年代に名前が浸透してきました。
名前が売れてからは、SETの公演に「マスコミで見た三宅裕司が出ているから」とやって来る人が多くなるわけです。
そういう意味では客層も幅広くなったかもしれないですが、とにかく若い人が増えました。中には放火魔(永田君)を見に来る人もいたみたいでしたね。(聞き手 慶田久幸)