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70歳母の安楽死をきっかけに仏門へ スイス出身の古刹・高雲寺住職 ジェシー釈萌海さん 一聞百見

産経ニュース 2024年11月8日 14時0分

空手がきっかけで、はるか9500キロ離れたスイスから日本へ。留学生として日本語を学ぶ傍ら、居合道、尺八と日本文化を体得した後に僧侶となったジェシー釈萌海さん(45)。来日して今年で20年。8月末には真宗大谷派で初の外国籍の住職として、福井県敦賀市にある寺院に着任したばかりだ。仏門に入った背景には、安楽死を選んだ母の死が。自らの苦しみや葛藤を経てもたらされた縁をかみしめている。

「こんにちは」。黒の法衣(ほうえ)に輪袈裟(わげさ)を着けて待ち合わせた東本願寺門前(京都市下京区)に現れた。金髪に青い目と面差しは外国人だが、凜(りん)とした僧侶としての落ち着きを感じさせる。「モデルが悪いかな」。写真撮影では流暢(りゅうちょう)な日本語で冗談を交えながら笑みを見せるものの、「私の歩みは、母の死抜きでは語れない」と明かす人生には深い苦しみが影を落とす。

9年前、安楽死が認められたスイスで独り暮らしをしていた母が突然、自殺幇助(ほうじょ)団体に自らの死を申請した。母は友人の死をきっかけに鬱状態に陥っていた。「通るわけない」と楽観していた周囲の思いをよそに、4カ月後には医師らの診断を経て申請が認められた。

日本から連日、電話で母を説得したが、けんか別れに。「これからの人生は下り坂しかない。死ぬのは私の権利だから、あなたに引き留める権利はない」。決意は変わらず、2016(平成28)年2月、自宅で他界した。母が「死ぬにはちょうどいい天気」と語った雪の降る日。70歳だった。

両親は離婚していたが、母の死を知った父はショックのあまり1カ月後に急逝した。母が死を迎えた実家に帰る気にもならず、兄姉とも疎遠になった。

スイスでは、医師から処方された致死薬を患者が摂取して亡くなる自殺幇助が認められている。治る見込みのない病だけでなく、精神障害や認知症の患者にも適用される。

とはいえ、大きな疾患はなく、鬱状態の薬も飲んだり飲まなかったりだった母の希望をなぜ認めるのか。自殺幇助団体への不信感と母への怒り。母の強固な意志がもたらした影響は大きすぎた。

「すべてを失った感じで、気が狂いそうでした」

精神的に深く落ち込む中、当時勤務していた仏教系高校の校長から写経を勧められた。読み方を教わり、音読すると、母への怒りが落ち着いてくる感じがする。そんなときに、東本願寺前である言葉を目にしたのは偶然だった。

《今、いのちがあなたを生きている》

当初は文法的に違和感があった。しかし、命は与えられたもので、決して私有化してはならないとの意味を知り、傷付いた心に深く染み入った。真宗大谷派との縁ができ、知り合った人たちの後押しを受けて得度した。

致死薬が入った点滴の仕切り弁を躊躇(ちゅうちょ)なく開いて逝った母。「なぜ、その強い意志を生きることに向けられなかったのか。心のよりどころがあれば暗闇でも生きることができたのではないか」との思いが今もぬぐえない。

5年前からは依頼を受けて母が安楽死した経験をもとに各地で講演する。人は何のために、何をよりどころに生きるのか-。僧侶として生きる今、人に説きながら自問している。

伝統文化に魅せられ 異郷の地で「道を求める」

境内に遅咲きの枝垂れ桜が美しかった。平成30年4月7日、真宗大谷派の本山・東本願寺での得度式の光景がいまでも色鮮やかによみがえる。あえて宗祖・親鸞が得度した時期と重ねた。

《明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは》

親鸞は9歳で得度した。この歌は、得度を頼んだ寺から「夜遅いから明日にしてはどうか」と言われた際に詠んだもので、「今このときが最も大切だ」との意味が込められている。

「この歌は私の好きな言葉。だから宗祖と同じ桜の時期に得度したのは、私にとって大きな意味がありました」。振り返れば、親鸞の教えに触れる前から「今」というときを大事にしてきた歩みだった。

日本ではアニメでもおなじみの小説「アルプスの少女ハイジ」。生まれ育ったスイスの村はその舞台にもなり、幼いころの記憶をもとに訪ねる日本人観光客も多いという。

そんな自然豊かな地で育った少女は、日本に憧れた。「5、6歳のころに映画『ベスト・キッド』で空手を初めて知り、強くなりたいと思ったんです」

道場に通い始めて17歳ごろに黒帯を取得。その後、道場長として子供や大人に教えるまでになった。そんな中、本場の空手を経験したいと3週間の日程で初来日。片言の日本語で身ぶり手ぶりを交えながら各地で観光も楽しんだ。特に印象に残るのが、後に世界遺産に登録された熊野古道。今ほど観光客もおらず、1人で歩いて目にした風景はとても神秘的に映った。

帰国後も日本への思いは収まらず、平成16年に留学生として再来日した。京都市内の日本語学校に通いながら、居合道の世界に飛び込んだ。

「武道は自分の国にはないもの。スポーツとしてよりも、精神面。『道』を追求する部分にひかれました」

人生における「道」とも重なり、日本の伝統文化に神秘性を見いだすようになる。幅は広がり、自然の竹から作られて形や模様、音色と同じものが二つとない尺八にも魅了されていく。

一方、日本での生活に溶け込む中で、奇妙だと感じる場面にも遭遇した。例えば、結婚式はチャペルだが、子供が生まれたらお宮参りのために神社へ。亡くなった際には寺で葬儀を営むといった具合に、日本人の人生にはさまざまな場面で異なる宗教が介在する。スイスにはない「お守り」という存在も不思議だったという。

葬儀に参列した際に清めの塩を渡されたが、使い方を知らずパスタをゆでるときに使用し、周囲に驚かれたことも今では笑い話の一つだ。「まさかその後、自分が僧侶をやっているなんて思いもよらなかった」

僧侶への道を志したのは、日本に根差して十数年がたったころだった。読み書きもでき、流暢(りゅうちょう)に日本語を操るまでになっていたが、それでも「外国人だから無理だ」という言葉を幾度か投げかけられた。

「傷付くこともありましたが、むしろ『道を求めるぞ』と気合が入りました」。持ち前の強さで壁を乗り越え、今を生きている。

住職の重責、喜び ともに学ぶ開かれた寺に

目の前に美しい海が広がり、日差しを浴びた水面が輝いている。「裏手には山が広がり、寺は私がいつも夢で描いていた質素な雰囲気そのものでした」。8月末から27代目として住職を務める高雲寺(こううんじ)(福井県敦賀市)。今年5月、初めて訪れた際の印象はまばゆかった。

15世紀の創建と伝わる古刹(こさつ)。3月24日に当時の住職が急逝し、新たな住職を探していた。しかし、市街地から離れた海岸沿いにある寺では、なり手を探すのも一苦労だ。この地に限らず、少子高齢化や過疎化に悩む地では近年、宗派問わずこうした問題に直面している。

僧侶になって6年。その間、住職になるために必要な教師資格も取得した。「どこかに私でもできる質素な山寺でもあれば」。いつかは住職に、けれど「外国人」「女性」のハードルは高いと思い込んでいた中で、知人の僧侶から高雲寺の住職就任の打診があった。

初めて寺を訪れ、出迎えた総代や役員から説明を受け、境内を案内された後のことだった。

「さあ、ジェシー決めようや」「一緒に(住職になるために必須の)住職修習行こうや」。総代らからこう呼びかけられた。

「この私で、外国人女性でいいの?」「住職の経験ないよ」。突然の積極的な歓迎に戸惑いながらも尋ねた。

「なんも文句はない。やる気がある人なら問題ない」「この場でともに学んでくれたら十分。ともに歩んでいこう」。互いに相手を見つけた、そんな感じだった。居並ぶ人々の温かい言葉がうれしかった。

5年前から、東本願寺近くの圓徳寺(えんとくじ)(京都市下京区)で葬儀・法要を手伝っていた。偶然通りかかり、手入れされた庭の美しさにひかれて住職に話しかけたことがきっかけで、手伝いを頼まれるようになった。「この寺のおかげで『ペーパー住職』にならなかった。不思議な縁に導かれ、手伝うことで住職を引き受ける準備ができた」と語る。

就任に向けて、今年8月末に総代と本山での住職修習に参加したほか、掃除や整備のために京都市内の自宅から通う日々。その時は決まって、門徒が敦賀駅や寺近くのバス停に迎えに来てくれた。住職の呼び名「御院(ごえん)さん」と呼ばれ、うれしさとくすぐったさを感じながら、60~90代の門徒とともに掃除やお勤めに取り組んでいる。

門徒の熱心さにも胸を打たれる。多くは、親の世代は仕事をしていて寺とのつながりは薄かった人たちだ。「みなさん、年を重ねて親など大切な人を亡くして仏さんと縁を結ぶケースが多い。触れ合うにつれ、代々守ってきたみんなの寺であることを感じます」

9月からは毎月28日に聞法会(もんぽうかい)を開き、10月12日には門徒が見守る中で住職就任式を営んだ。

住職になり、その立場の重要性をかみしめている。「住職がいないと寺から人が離れていく」。さまざまな縁でたどり着いたからこそ感じることがある。「寺の未来は暗いと思っていたが、出会いがあって未来が明るくなった」との総代の言葉を胸に、誰にでも開かれた寺にしたいと願う。(池田祥子)

じぇしー・しゃくほうかい 1979(昭和54)年生まれ。スイスと英国の国籍を持つ。2004(平成16)年、留学生として来日し、日本語を学びながら居合道や尺八にも取り組む。18(同30)年、母の死をきっかけに真宗大谷派で得度。教師資格を得て、今年8月末に高雲寺(福井県敦賀市)の第27代住職に就任した。居合道四段、尺八は琴古流、都山流で師範の免状の腕前。京都市内で日本人の夫と暮らす。

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