《昭和33年、福島県庁に勤める父、善男さんと母、みゆきさんの長男として誕生。幼少期から習いごとに通うなど両親は教育熱心で、福島大学付属小学校を受験、合格した》
ピアノは小学6年生くらいまでやり、中級クラスの「ソナチネ」までいったのかな。そのほか書道や絵画の教室にも通っていました。ほかにも福島にオーケストラの公演がくると鑑賞に行き、著名な画家の絵画展があると東京まで行ったりした。小さいころのこうした経験が体に刻まれているんでしょう。今でも国内外でコンサートや美術館に行くのが楽しみなんです。これには本当に両親に感謝です。
でもね、これは今振り返っての感想。「教育のため」と極端な倹約生活だったので、本当にイヤでした。実家は公務員宿舎の1階で、両親は前庭を家庭菜園にしてタマネギやナス、ピーマンとかを自給自足する。通学路だったので同級生がそれを見るわけ。で、「スーパーに行ったことあんのか?」「サカナは阿武隈川で釣ってくるのか?」ってからかわれるんですよ。
カステラには1センチごとに印がつき、「もったいないからそれ以上切るな」、カルピスの瓶にも1回ごとの線がひかれて「それ以上注ぐな」。東京に行くにも鈍行という徹底ぶりで、東北本線の福島から片道7時間かけて上野まで出る。同級生は病院長や大学教授、経営者の息子たちで、ハワイ旅行に行ったとか言っている。それで家族で沖縄旅行に行けるよう、自分でお金を稼ごうと決意したのです。
《小学生時代、〝最初の事業〟に失敗する》
まずは3畳一間の自分の部屋に水槽を3つ4つ置いて、エンゼルフィッシュやグッピーなど観賞魚の孵化(ふか)を始めました。観賞魚はペットショップで1匹200円くらいで売っていて、増やして100円で買ってもらえれば100円のもうけ、50匹で5000円になるぞ、と。
孵化させてエサをやり、水槽を洗って、と懸命に育てた観賞魚を初めてお店に持っていったときのことは忘れません。1匹20円と言われたんです。これではエサ代にもならない。ジュウシマツやカナリアなどの鳥の飼育も失敗。原価を把握することの大切さを思い知りました。
《新聞配達を始めた》
小学5年生のときです。最初のお店は郊外にあり、配達は50軒ほどで月給4000円くらい。でも一軒一軒が離れてて、時間がかかるんですよ。一番イヤなのはお寺さん。階段があって「同じ1部なのになんで登んなくちゃなんねえの」って。雨の日は特に大変で、4カ月ほどで別のお店に移りました。
次のお店は月給7000円で、140軒と倍以上。だけど駅前なので配達範囲は広くはなく、旅館で10部とかもある。苦手の寺もない。自転車に積む部数が2倍以上になって行きはかなり重いのですが、真剣にやりました。時給がいいうえ、映画の無料券ももらえたんで。
それが忘れもしない年末年始。大みそかの配達を終えた僕に、店長さんが「石田くん、明日はちょっと早く、午前4時に来てね」って言う。いつもは5時半か6時で、「お正月にそんなに早く誰が来るんだ」と考え、5時半に行ったら驚いた。配る新聞の山がいつもの5倍はある。「どうなっちゃってるんですか?」。初めてだったんで、お正月は別冊も配らなければいけないことを知らなかったんです。「早く来て」の意味はこれだったのか…。
無理していつもの倍くらい積んで配りに出た。福島のお正月ですから、雪は積もりませんが路面は凍っている。慣れてはいるのですが、いつもの重さでないから自転車は滑り、新聞ごと転倒です。8時くらいになると今度は路面がびちゃびちゃに。正月早々、お客さまにびちゃびちゃな新聞を配ってしまった。当然クレームの嵐で、店長さんは「もう来なくていい」と。小学生のときから、お金稼ぎの厳しさを体験していました。(聞き手 大野正利)