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新聞・テレビの就職に軒並み失敗し「左翼の巣窟」へ でも仕事のほとんどは企業のPR映画 話の肖像画 ジャーナリスト・田原総一朗<11>

産経ニュース 2024年10月11日 10時0分

《同世代の作家である石原慎太郎、大江健三郎(けんざぶろう)の小説に衝撃を受けた田原さん。作家志望を諦め、ジャーナリストを目指して早稲田大の第一文学部に入学し直すことになる》

ジャーナリストになるにはまず大新聞社や放送局に入るのがいいでしょ。そこで多くのジャーナリストを輩出した、同じ早稲田大の昼間部である第一文学部を受け直すことにしたんです。勤めていた日本交通公社(JTB)は昭和30年の年末に辞めました。どうせ向いていなかったしね(苦笑)。

ただし、家にカネがないのは変わりありません。学費も生活費も自分で稼ぎ、相変わらず実家へ仕送りまでしていた。家庭教師をはじめ、あらゆるアルバイトをやりましたよ。

下宿ですか? 上京して以来、東京・上野にあった父の姉(伯母)の家に住まわせてもらっていた。大学へは、毎日、国電(国鉄)と都電を乗り継いで通いました。

《卒業が近づき、新聞社やテレビ局の就職試験を受けるも、ことごとく落ちてしまう》

新聞は、朝日や東京。放送局はNHKやTBS、ニッポン放送などなど10社連続でダメ。さすがに落ち込んだなぁ。一般企業ですか? ジャーナリスト志望一本に絞っていたので、まったく受けませんでしたね。

11社目に受けたのが、岩波映画製作所です。元は岩波書店の一部署だったけど、僕が受験した年に、分社化された。面接試験で僕は言いたい放題。待機時間が長いので「昼飯を出せ」と文句を言ったりもしましたけれど、結果はなぜか? 合格でした。生意気なのが、逆に良かったのかもしれません。

《当時の岩波映画製作所には、羽仁進(はにすすむ)、黒木和雄、東(ひがし)陽一ら、後に映画監督として名をはせる顔ぶれがそろっていた。作家の五木寛之さん(92)は後の田原さんとの対談で、当時の岩波映画のステータスは朝日新聞やNHKよりも上だった、と話している》

五木さんが岩波映画のことをよく言ってくれるのはうれしいけど、それはどうかなぁ? 岩波書店の方は確かにレベルが高くて、社員はプライドを持っていましたけどね。

それから岩波映画は、左翼の巣窟でした。でも実際にやっていた仕事のほとんどは、企業のPR映画をつくること。

羽仁さんや黒木さんらは、その仕事をこなしつつ、自分でカネ(スポンサー)を集めて、映画をつくっていた。すごい人たちがそろっていて、特に羽仁さんは岩波映画の看板でした。

昭和35(1960)年春に入社した僕が最初に配属されたのが、撮影助手の仕事。監督やカメラマン、照明などがチームを組み、企業のPRビデオをつくるのです。不器用な僕は失敗ばかり。はっきり言って〝落ちこぼれ助手〟でしたねぇ。交通公社に勤めていたころから細かい仕事は得意じゃない(苦笑)。

《岩波映画に入社した年(昭和35年)の11月、いとこの末子(すえこ)さんと結婚、26歳だった》

末子は、下宿先である伯母の娘。3つ年上で、最初は「お姉さん」みたいでした。いろいろと相談に乗ってもらっているうちに恋愛関係になったのかな。

末子との結婚は周囲から反対されました。(血が濃い、とされる)いとこ同士だし、僕はまだ就職したてで、一人前になっていませんからねぇ。

結婚しても相変わらずカネはありません。でも女房も働いてくれたし、苦にはならない。戦争を経験している僕らは、その怖さ、苦しさに比べたら苦労にもならないって。(聞き手 喜多由浩)

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