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大阪では先生の好意で日本ふうの名 大陸からの女性教師は「金美齢は天才」うれしかった 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<5> 

産経ニュース 2024年8月5日 10時0分

《日本統治のもと、少女期は母方の実家で過ごした》

お茶の製造もしていた実家では、大きなたらいにお茶っぱを入れて多くの人の手でお茶を乾燥させていた。それが私の原風景。お茶というのは製造過程にシーズンがあって、そのうちの一つに火入れがある。生茶とか深煎りとか、日本でも同じでしょ。その火入れをする広い場所と設備も実家にはあった。

で、その場所は火入れをしない時期には劇団の稽古場として貸していた。幼いころ、家で稽古している新劇の役者たちをぼーっと見ていた記憶がある。早稲田大では英文学を専攻したんだけど、テーマは演劇。幼いころの体験と関係はなきにしもあらずよね。

《通ったのは日本語の小学校》

当時の台湾の初等教育には台湾語が基本の公学校と日本語がうまくなった子が行く小学校があった。差別でもなんでもなくて、効率的な教育方法。私は最初は蓬莱公学校だったけど、父の仕事の関係で日本に2年間いて、大阪市内の中大江小学校に通っていた。耳がいいから日本語はすぐ覚えた。そのときの担任の先生が金美齢って、クラスのみんな呼びにくいだろうからと、「金田峰子」って名付けてくれたのよ。創氏改名なんてもんじゃなくて、クラスに早く溶け込めるようにという、これは先生の好意だった。

台湾に帰ってからは台北市内の寿小学校に通った。私は日本語もうまいうえ、要領がよくてね。例えば夏休みの宿題だった習字。大文字の大楷書と小楷書の両方を毎日書いて、始業日に出さなきゃいけないわけ。それを前年のをとっておいて、夏休み明け直前に1枚目だけ破って新しく書き、下は前年のままで提出する。1枚目は先生がサインするからね。だから今でも字は下手なまま。

そのうち戦争が激しくなって、家族は台北郊外の温泉で有名な北投に疎開した。そこで通ったのが新北投小学校で、日本人や大きな旅館の子女らお金持ちだけが通う小学校だった。小規模な学校だったんで初めて学年トップになり、それもあって台湾きっての名門女学校、台北第一高等女学校になんとか入学できたのよ。

《11歳のとき、終戦を迎えた》

終戦で悔やんでいることがある。新北投小に背が高い日本人の女の子がいた。私は成績がよく、背が低いのに勝ち気で、正直に何でも話すから、その子から疎まれていたわけ。それがなにかをめぐって言い争いになったとき、「あなたね、日本は負けたのよ。何偉そうにしているの」って言ってしまった。相手は悲しそうな顔で黙りこんだ。本当に心ない言葉だったと今でも後悔している。

女学校に入ったころには、学校から日本語、台湾語が追放されて、全部中国語になった。だから授業なんてちんぷんかんぷん。大陸から来た歴史の若い女性教師なんて、教室で何を話しても生徒たちの反応がまったくないので、ため息ばかりついていた。

ある日、教える内容に一区切りついたのか、その女性教師が「トーン? プトーン?」と問いかけてきた。クラスのみんなは相変わらずぽかんとしていたけど、私はすぐに「プトーン」と答えた。反射的に「分かったの? 分からなかったの?」という意味だと思ったから。

初めて生徒からの反応があったもんだから、その女性教師が喜んでね。黒板に大きく「金美齢は天才だ」と書いてくれた。漢字は同じだからみんなが理解し、驚いた視線が私に集まった。あれはうれしかったわね。(聞き手 大野正利)

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