東京メトロ早稲田駅から徒歩約10分、静かな住宅街の中にたたずむ東京都新宿区立漱石山房記念館(同区早稲田南町)を訪れた。文豪・夏目漱石が大正5年、49歳で生涯を閉じるまでの9年間を過ごした場所だ。
門下生が文学談義
記念館は漱石の生誕150周年にあたり、平成29年に開館した。漱石資料の収集、展示などを行い、漱石の孫でエッセイストの半藤末利子さんが名誉館長を務める。
かつてあった漱石山房は、和洋折衷の木造平屋建てだったという。漱石は明治40年9月からそこに暮らし、『三四郎』『それから』『門』の前期三部作など代表作を次々に生み出した。毎週木曜日の「木曜会」には若い門下生らが集まり、文学談義などを行った。新聞で『明暗』を連載中、漱石は胃潰瘍で死去。その後昭和20年5月の「山の手空襲」で建物が焼失した。
記念館の前庭には、バショウやナツメなど、在りし日の山房を思わせるさまざまな植物が植えられている。周囲に茂る細い竹のようなトクサは、漱石が特に好んだ植物だと、同館主任で学芸員の嘉山澄さんが解説してくれた。
入館してまず目に飛び込んでくるのが、等身大の漱石の写真。身長158・8センチは当時の平均程度だ。
1階の導入展示部には漱石の人となりを紹介するパネルなどがあり、無料で閲覧できる。受付の先からは有料展示エリアとなり、目玉となる書斎と客間、ベランダ式回廊を再現したスペースがある。2階の展示室では、草稿や初版本、書簡などを展示している。
絵画から広さ推定
再現された客間、書斎はそれぞれ10畳で隣り合う。板間にじゅうたんを敷いた書斎の南側の窓からは、日の光が差し込む。
木曜会に通っていた芥川龍之介が『漱石山房の秋』に描写した通り、書棚にはびっしりと和漢洋の書物が並ぶ。一つ一つの物品や配置が、当時を今に伝えるべく細心の注意を払って復元されたことがうかがえる。
書棚の洋書は、東北大学付属図書館の協力で「漱石文庫」にある蔵書の背表紙を撮影して作られたそうだ。漱石の弟子で図書館長だった小宮豊隆が漱石の蔵書を同大へ移していたため、実物は空襲での焼失を免れている。
万年筆や原稿用紙などが置かれた書き物机の後ろの床にも、書物が積まれている。家具や調度品、文具は、実際の資料を所蔵する県立神奈川近代文学館の協力で再現された。
部屋の広さの特定には格別の苦労があったようだ。資料によって8畳であったり10畳であったり判然としなかったが、「決め手となったのは、客間の写真に写っていた1枚の油絵」だと嘉山さん。
その絵は洋画家、安井曽太郎の「麓の町」。絵の寸法と、昭和3年に撮影された写真に写る絵のサイズを比較検討した結果、書斎・客間とも10畳あったと割り出された。
受け継がれる記憶
記念館には文学愛好家のほか、海外からの観光客、翻訳者なども訪れる。
ミュージアムショップでは今年、42歳当時の漱石の写真をプリントしたアクリルスタンド(税込み800円)を発売した。「推し活」グッズの定番として知られるが、若い「文学女子」をはじめ、漱石愛好者に人気という。館内には、SNS投稿などができるよう、書斎をモチーフにした撮影セットもある。
文豪は、自身が後世、アクスタになっているとは想像もしなかったであろう。生前、木曜会に文士がつどったように、令和の今もこの地には漱石を慕う人々が集まり、記録・記憶を受け継いでいる。(黒田悠希)
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記念館は午前10時~午後6時(入館は午後5時半まで)。通常展の観覧料は一般300円、小・中学生100円。休館は月曜と12月29日~1月3日など。