神奈川県藤沢市のコミュニティーFM「レディオ湘南」で24年間、月曜から金曜まで毎朝マイクの前で語り続けた。4年前に放送は終了したが、「ハギー(HAGGY)さん」は今も、湘南の老若男女から親しまれる存在だ。親に捨てられ、生きることに疲れた少年時代、ラジオから流れる声に救われた。人との出会いを丹念に紡いだ絆を糧に、今も活躍の場を広げている。
マルチタレント
「生放送は『分』感覚では成立しない。『秒』で捉えるのが大切なんです」
藤沢の自宅を出て電車を乗り継ぐこと約2時間。東京都新宿区にある目白大学で講師を務め、今年で10年になる。講義名は「ライブ番組制作演習」。メディア学科の学生が真剣なまなざしを向ける中、自身の経験を交えながら、熱っぽく語りかけた。
ラジオパーソナリティー時代から続けている大学講師のほかに、テレビ番組のキャスターやナビゲーター、観光親善大使、イベントの司会…。「職業は?」と聞かれても答えられなくなってだいぶたつ。現在は、ひとまず「マルチタレント」を名乗る。
いくつもの道が開けたのは、人との出会いを大切にしてきたから。背景には、生い立ちが関係している。
人に救われ
1歳のころに実の親から育児放棄に遭い、茅ケ崎に住む父方の親戚の家に預けられた。そこでも、かんしゃく持ちのおばからたびたび虐待を受け、世の中に絶望した。中学2年で初めて自殺未遂。以来、何度も死の誘惑に駆られた。
だが、実行しようとするたび「隣家のおばあさんや近所のお兄さん、あるときは通りすがりの酔っ払いのおっちゃん」に見つかり、踏みとどまった。「自分はたくさんの好意に恵まれている。死のうと思うのは失礼だ」と思うようになった。
苦しい少年時代の伴走者がラジオだった。虫垂炎で1カ月入院した小学生のとき、スピーカーから聞こえてくるディスクジョッキー(DJ)の声に一日中、耳を傾けた。「まるで僕だけに語り掛けてくれているようだった。いつか、そっちの世界で働きたいという気持ちが芽生えた」
まずは自立することが先決だった。周囲の勧めもあって、高校卒業後に厚生省(現・厚生労働省)の厚生事務官として精神科や小児病棟に勤務。通信制の大学に通って教員免許を取得し、神奈川県内で9年間、教員生活を送った。
今度は自分が
それでも夢を諦められず、30代で「しゃべり」の道へ。平成8年、開局したばかりのレディオ湘南から出演を打診された。朝の情報番組を担当し、湘南の情報を発信し続けた。
早朝に起床し、江ノ島電鉄の始発に乗って出勤した。スタジオはガラス張りで、「今度は自分がリスナーを励ます番。学校に通う子供や勤務先に向かうサラリーマンに手を振りながら、しゃべり続けた」。
文字通り、雨の日も風の日も。軽妙な語り口は少しずつ人々に浸透していった。
テレビの人気情報バラエティー番組で江ノ島特集が組まれた際には、名所・名物と並び「人気ディスクジョッキー」として紹介され、番組が5555回を迎える際には湘南モノレールが「DJ・HAGGY号」を運行。「ハギーさんの声」は、いつしか「湘南の声」となった。
令和2年3月、レディオ湘南での出演番組は6056回で終了した。ギネス申請の話も出たが「そうするとまた忙しくなっちゃうから」と笑う。
昨年には、著書「1歳で両親に捨てられた僕が湘南でラジオDJになった話」(文芸社)を出版。決して恵まれていたとはいえない幼少期も含め、半生をありのままにつづった。
ラジオのリスナーや大学で講義を受ける学生らから悩み相談を受けたときは、自身の経験と重ね合わせ、こう答える。
「右に行ってダメだったら、左に戻ればいいじゃん。僕はそうして、これまで生きてきた」
軽妙でありながら優しさがにじむ。そんな語り口は今も健在だ。(宇都木渉)
■DJ・HAGGY(でぃーじぇい・はぎー)
本名・萩原浩一(はぎわら・ひろかず)。年齢非公表。湘南育ちでラジオパーソナリティーやイベント司会、大学講師など幅広く活動。地元に深く通じ、周囲からは「湘南の歩く百科事典」と呼ばれている。雑誌「ラジオ番組表」(三才ブックス)の「読者が選んだ好きなDJランキング・コミュニティ放送部門」で平成22年から7年連続で1位に選出された。
■地域密着のコミュニティーFM、全国に341事業者
限られたエリアを対象に行政やイベント、観光などの地域密着情報を配信するラジオである「コミュニティーFM」は、平成4年に制度化された。開局には総務相の免許が必要で、電波が微弱な超短波放送用周波数を使用するため、受信範囲は半径5~15キロ程度とされる。
初の開局は、4年12月の「FMいるか」(北海道函館市)。7年の阪神大震災を契機に地域情報の重要性が見直され放送局の数が急増し、昨年12月現在で全国に341の事業者が存在する。平成23年の東日本大震災でも、被災や停電の状況などが伝えられ、貴重な情報源となった。