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乗船予定の船が転覆し母は帰国を断念 どこでお金を…「恥かきっ子」と呼ばれた幼少時代 話の肖像画 元プロ野球選手・張本勲<4>

産経ニュース 2024年12月4日 10時0分

《多忙で不在がちだった父、張尊禎(チャンサンジュン)さんに代わり、張本家は母、朴順分(パクスンブン)さんが1人で4人の子供を育てた…》

(母が)40歳のときの子なんだよ。王(貞治)も40の子だからね。昔は〝恥かきっ子〟と呼ばれたんです。おやじは戦後まもなく韓国に戻った。いろいろ残務整理のためでした。向こうにはおやじの両親もいた。日本には母がいた。また帰ってくると言っていたが、どうしたって1年くらいは過ごしますよね。

そんな折、朝鮮動乱(※昭和25年6月、南北に分断された朝鮮半島での戦争。28年7月に休戦協定)が勃発した。これは当分帰って来られないなと思っていたら、(母が)おやじはその前に亡くなったって言ってました。

母が1人で子供が(上の姉が原爆で亡くなって)3人。どうするんだろう? 何もねぇよ、って子供ながらに思ったね。でも母はどこかでお金を工面してくる。3千円とか、5千円借りて。何とか生活していた。たまたま隣のおばさんが、家の外で商売をやっていた。石炭箱をひっくり返し、白い布をかぶせてテーブル代わりです。キムチとか雑肉などを調達して、大工さんとか土木工事をする人たちに売っていた。密造酒、焼酎、どぶろくもあった。結構お客さんが入っていたね。

その人のお母さんがうちの母に、「あんたもやってみなさいよ、料理が上手なんだから…」って。終戦直後、私が小学校に入る前です。3畳の土間、そこでご飯を炊く。そして6畳、奥に4畳の部屋。その向こうは土手、その先は川ですよ。そんな昔の長屋みたいな家の外でホルモン屋を始めた。

あるとき、家までお客さんが入ってきて、飲んだり食べたりしていた。また、あるお客さんは飲むと必ず浪曲をうなった。私が6、7歳のころかな、それを聞いてすっかり好きになった。二代目広沢虎造ですね。今でも家に『61番』(日本の伝統芸能シリーズ浪曲編第61弾。「忠治と火の車お萬」を収録)まであります。演歌も好きですよ。店で聞いていた影響ですね。

母は片言の日本語で広島駅近くにあった闇市で、肉や材料などを仕入れていた。壁に数字を1、2、3…と書いて「8本売れた」「9本売れた」って喜んでいた。そういう商売をして子供を育ててくれた。

《運命の決断…》

そんな母が一度だけ韓国へ帰ろうとしたらしい、子供4人を連れてね。戦争中で生活が苦しかった。比治山の麓、土手近くに小さな船着き場があった。そこから玄界灘を通って、何人も(韓国へ)帰っている、在日韓国人が…。でも行ったら、次の船は2、3日は待たなければならないという。で、母は船着き場近くにある小さな家を借りたそうです。家賃は1カ月で200円くらいだったかな。

そこで待った。やっと船が来た。船着き場まで子供を連れて行ったそうです。人が大勢並んでいて満員だと断られた。韓国を往復するとなると1週間以上はかかるかな。しようがないから部屋に戻った。それから2、3日したら玄界灘近くで船が転覆したという。私たちが乗ろうとして、断られた船だったんです。お袋は怖がって「もう帰るのはやめよう」って。借りた家にそのまま住むことになった。それが私が子供のころに育った比治山の麓の家です。

思えば、その家のおかげで原爆でも助けられた。船が転覆しなかったら韓国に帰っている。運、不運の瀬戸際ですが、母の決断は大きいわな。今の私があるわけですからね。

子供のころ、母の寝ている顔を一度も見たことがなかった。朝早くから夜遅くまで働き詰めです。今考えても、ありがたいことです。明治生まれの女性は強い。晩年、母に「あんたは強いな」と言ったら、黙って笑ってましたけどね。おやじがいない。子供4人、よく育てたと思います。(聞き手 清水満)

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