Infoseek 楽天

プロの一歩はフライデー専属カメラマン 今まで見たことがない「ソ連の現実」を狙う 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<16>

産経ニュース 2024年7月17日 10時0分

《撮影旅行でソ連を訪問、週刊誌デビューも果たし、実績を積んだが、その裏には大学生らしからぬ戦略があった》

写真展がきっかけで、週刊誌デビュー作となった「モスクワの売春婦」が週刊新潮に掲載されたのは大学3年生のとき。丸々8ページもらえて10カットくらい採用されました。新潮社から20万円ほど原稿料が出て、写真展のプリント代になりました。写真は行き当たりばったり、ゲリラ的に撮りましたが、そういう取材が許された時代でした。

ただ、計算はしていました。当時のソ連はイメージと現実が違い、物乞いや売春婦など、ないはずのものがあって、共産主義社会に弾(はじ)かれた人間もいたんです。西側にかぶれたはみ出し者とか。そういった、今まで見たことがない「ソ連の現実」を狙いました。産経新聞も含めて日本メディアのモスクワ支局はありましたが、当局の目があってそんな取材はできません。できるのはアマチュアだけです。「じゃあ、俺がやろう」と思い立ちました。

現地ではこっそり撮ったりもしましたが、大きくてシャッター音も響く一眼レフなので、隠し撮りではありません。それでも、何回か捕まり、フィルムを抜かれました。売春婦とかではなく、はだしの子供とか軍人を撮ったときでしたね。

《勉強とアルバイトに追われながら、独自の写真も撮り続けた大学時代。当時は写真週刊誌に注目が集まっていた》

世の中全体が写真週刊誌ブームでした。先発の「フォーカス」(新潮社)は藤原新也さんの連載「東京漂流」など、すごい参加メンバー。専攻していた報道写真を学ぶゼミの木村惠一先生も、編集に携わっていました。その後、「次は講談社が創刊するらしい」と聞き自分もやりたいと思いました。

募集は人づてで、ゼミの先輩に紹介してもらいました。4年生のとき、赤尾敏さんやモスクワの売春婦の写真を編集部に持ち込んで売り込みました。週刊新潮に掲載されたことは特に注目されませんでしたが、赤尾敏さんの写真はインパクトがあったようです。寝室の写真が創刊前のフライデーのダミー版で使われましたから。

その後、何回か面接などを経てフライデーの専属カメラマンに採用されました。ただ、創刊は大学を卒業した昭和59年の11月。社会に出てから半年以上もダミー版を作っていました。創刊前から採用された専属カメラマンは7人でした。

《創刊準備が進むフライデー。初めて仕事の依頼が入ったのは大学在学中だった》

初仕事の話がきたのは卒業式前日。テレビ局の女性アナウンサー婚約のニュースでした。あのころの取材はアポも取らず無断で記者とテレビ局に潜入。取材対象者を探し、いきなり「バシャッ」と撮るんです。無許可で入った社内での撮影ですから今ではあり得ません。そのとき怒った相手にストロボを壊されました。そんなことがあって、先方も機材を壊した負い目から、あまり問題にはならなかったようです。そういう時代でしたね。そんな写真はピンボケでしたがダミー版に載りました。

《トラブルがあった翌日、大学の卒業式には出席した》

卒業式で、優れた卒業制作に贈られる「金丸重嶺賞」をもらいました。学部の創設者の名前から取った賞で、赤尾敏さんの写真で受賞しました。寮の暗室で徹夜もして仕上げた力作です。それまで賞と全く縁がなかったので、うれしかったです。これも木村先生のご指導の賜物(たまもの)です。授業中、プリントにたばこの灰を落とされたのも懐かしい思い出です。先生の米寿を祝う会が今年、開かれました。(聞き手 芹沢伸生)

この記事の関連ニュース