《昭和50年オフ、高橋一三投手、富田勝内野手との1対2の交換トレードで晴れて〝巨人・張本〟になった》
移籍1年目(51年)、オフの間に10キロくらい体を絞り、ベストの82、83キロで臨みました。体調は万全でした。5月から6月にかけて30試合連続安打を記録した。当時の記録は阪急の長池(徳二)が作った32試合だった(※ちなみにプロ野球記録は54年に広島・高橋慶彦が達成した33試合)。あと「2」に迫ったとき、アクシデントが起こったんです。
6月22日の大洋戦(後楽園)の試合前の練習で右足に自打球を当ててしまった。ものすごく腫れて、黒江(透修)コーチに見せたら「こりゃ、だめだ」って言う。トレーナーも「無理ですね」って。湿布してテーピングしてベンチにいました。
東映時代なら休んでいたでしょう。たとえば死球を受けるでしょ。私の筋肉は柔らかい。柔らかいのはいいけど、ケガに弱い。今でも傷が残ってます。ボールが当たって骨が変形して、出っ張っている。(当たった直後は)痛くてバットも振れない。腕が上がらず歯も磨けない。振れないと打てない。打てないとチームに迷惑をかけるから休むわけです。病院に行って診断書をもらって、監督も納得したけど、マスコミにたたかれました。
「張本は打率維持のために休んだ」ってね。でもプロ野球選手は完全な体で最高の技術を見せてこそ、お客さんが喜ぶ。けがをして出るのは、逆に失礼だというのが私の考えだった。
でも巨人では違ったんです。試合前、黒江コーチが「監督が呼んでいる」と言うので監督室に行きました。湿布など全部外して「これじゃ、ちょっと歩けません」と見せたら、長嶋茂雄監督は「こりゃ、ひどいなっ」って言いながら「とにかく出ろ!」って言う。「エッ? この人、おかしいんじゃない」って思った。「五回までは出ろ。だめだと判断したら俺が代えるから。全力で走らなくてもいいから」ってね。再び患部をグルグル縛って出ましたよ。黒江コーチも「監督命令だから」って。痛みをこらえて出ました。
《長嶋監督の言葉に感銘…》
九回まで出ました。1本だけショートの横に強い打球を打ったんです。「来た~っ」と思ったらエラーでね。4打席、凡打でした。ただうれしいこともあった。ベンチでね、「張さんに打席を回そう!」という選手の声が聞こえてきたんです。このとき、「ああ、巨人の一員になれたんだな」と思いました。結局5打席目は回ってこなくて、4打数ノーヒット、記録は「30」でストップです。しようがないわな。試合後、監督室に呼ばれました。「大丈夫か?」「ええ何とか帰れます」と答えたら、監督が私を諭すように真剣な顔をして言ったんです。
「お前な、普通なら(その自打球では)休むだろう。でもお前を見に来る子供がいるんだ。(球場は)午後4時開門なのに2時くらいから、夏のクソ暑いのに親子で待っている。王(貞治)さんはホームランを打つかな、張本はヒットを打つかな、という思いでいる。何千人、何万人もの人がお前を見に来ているんだ。そのお前が休んだら、ファンはがっかりするだろう。お前は不服だろうが、これからはそういう気持ちで、ファンのためのプロ野球選手になれ」ってね。
ハッとしましたよ、長嶋監督の言葉は今でも鮮明に残ってます。プロ野球選手としてのあるべき姿は〝ファンのため〟という言葉は重かった。そうならなきゃ、ウソやって。私は間違っていたな、と帰りの車の中で猛省しました。本当に恥ずかしかったです。プロ野球選手として目覚めさせてもらったというのが巨人という存在でした。今でも感謝しています。
《30試合連続安打はいまなお巨人最長だが、記録以上の〝プライスレス〟な宝を手にした》(聞き手 清水満)