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「まちの寄合所を残したい」 秋田市で閉業店を「地域居酒屋」に 田口将隆さん(44) 令和人国記

産経ニュース 2024年6月30日 8時30分

閑静な秋田市の住宅地で「喰い処 旬」を営む田口将隆さん(44)。実は、なじみの居酒屋が新型コロナウイルス禍で閉店すると聞いて「〝まちの寄合所〟をなくしたくない」と、半ばボランティアで店舗を引き継ぎ新規開店した。家族総動員でてんやわんやの1年余。赤字になれば本業の給料から補塡(ほてん)するが、常連客も従業員も変わらぬ顔ぶれで、店はワイワイガヤガヤにぎわう。

暮らしの一部の店

昨年の正月休み明け、店でマスターが「店閉める」と切り出した。コロナ禍が落ち着き、これからだという時期なのに、すでに3年間の重みに耐え切れなくなっていたんです。

反射的に「1週間待って」と返し、知り合いの料理人4人に店の継承を持ちかけたが「この時世に厳しい」「自分の店維持で精いっぱい」と全滅でした。

この店は、勤め帰りに1人で週末は夫婦でと10年通い、泉をはじめ多くの地元の人たちと語り過ごし、暮らしの一部になっていた。〝俺らのまちの寄合所〟をなくしたくない一心で不動産屋を訪ね、内装や設備はそのままの居抜きで店舗を借りることにしました。

切り盛りする人が見つからないので、企業の社員食堂に栄養士として勤めていた母親(69)に「もう店借りちゃったからさ」と強引に頼み込んだ。居酒屋は勝手が違うので、マスターに給料を払ってしばらくの間は残ってもらった。

座敷やカウンター、厨房(ちゅうぼう)の内装は塗装業の父親(69)に頼み、空調や照明、水回りは設備を仕事にしている自分でこなして改装費約300万円。外注なら倍はかかったでしょう。

トントンでも続く

3カ月がかりの開店。妻(43)と「旬のものを出したいね」と話して店名を決めました。かつて隣にあった「中華料理華(か)鈴(りん)」の店員だった華鈴兄(に)イ、前の店で配膳をした山ちゃんにも働いてもらい、マスターも結局1年いてもらった。妻も忙しいときは勤め帰りに手伝っています。

少しでも利益につなげ、地元の人がなじめるようランチを始めたこともあり、夜はかつての常連に加え、なじみが薄い地元の人や近隣企業の社員も増えた。

本業の勤め先は人手不足もあって土日出勤も珍しくない。一息つこうと勤め帰りに店に寄っても、混んでいれば作業着に前掛けをして手伝い、飲むのは一段落してから。もちろん代金はきちんと払っています。

客としての思いから、メニューは前の店より価格を抑えめにし、例えばワラビおひたし350円、ホルモン煮込み400円など、手ごろなつまみを増やしたことも喜ばれています

開店1年余で収支はトントン。赤字の月は自分の給料から補填する。それでも人件費と食材費はケチらない。接客や料理という〝店の顔〟に直結するから。本当は利益が少し出るといいけれど、不思議とトントンでもけっこう続けられるものですね。それより何より、地元の人がみな喜ぶ姿を見られれば満足。

地方の先例にも

秋田市は昨秋に人口が30万人を割るなど、人口減少時代の特に地方では、客足が減ってのれんを下ろす居酒屋が少なくない。

大都市で高齢の主人に代わって常連客が店を継ぐ話はよく聞きますが、地方は経営難が先に立つ。

そんな店を引き継いだのは無謀といわれるかもしれないが、住民同士が顔と顔を突き合わせ、酒を飲むことで本音をさらけ出しながら、地域のいろいろなことを語り合える〝寄合所〟としての居酒屋は、やはり欠かせない存在だと思うんですよ。

地方で居酒屋を維持するパイロットケースにもなるんじゃないかと、われながら思っています。

そのためにも、さらに一層地元の人の利用を増やし、経営も安定させることが目下の目標。将来、勤めをリタイアする年齢になったら、この店を専業でのんびりやってもいいかな…。

(聞き手 八並朋昌)

たぐち・まさたか 昭和54年、秋田市生まれ。泉小、泉中卒。秋田経法大付属高(現ノースアジア大明桜高)進学後、アルバイト先の給油所で評価されて高給となり、卒業後もそのまま勤務後、現在の設備会社に転職した。「喰い処 旬」(018・838・0134、同市泉中央2の8の9)はランチが平日午前11時~午後2時。夜は午後6~11時(無休)。

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