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鯨類飼育の変遷④ 試行錯誤したイルカの捕獲 くじら日記

産経ニュース 2024年8月28日 10時0分

1969(昭和44)年にオープンした和歌山県の太地町立くじらの博物館の発案者であり、当時町長だった故庄司五郎氏の計画には、クジラの「放し飼い」のほかに「ショー」がありました。しかし、オープン当初から飼育していたコビレゴンドウは神経質で、調教がうまくいかず、水面から半身が出るジャンプを披露するのが精いっぱいでした。

「ショーにコビレゴンドウは不向き。バンドウイルカが適当」と当時を振り返ったのは、1970(昭和45)年から14年間、くじらの博物館の鯨類飼育を支え、主任も務めた松井進氏です。ただ、コビレゴンドウは追い込み漁で捕獲できましたが、バンドウイルカは過去に一度も追えたことがありませんでした。飼育員らは自ら沖に船を出し、イルカの生け捕り方法を模索しました。

まず、ほかの鯨類を捕食することがあり、恐れられる存在であるシャチの鳴音(めいおん)を使ってみました。鳴音は鯨類が体から発する音で、イルカの群れを発見すると、録音したシャチの鳴音を水中スピーカーで流しました。するとイルカは慌てた様子で、ねらい通り音とは逆方向に逃げ去ろうとしました。すかさず捕獲のために港の方角へと誘導を試みましたが、数分後には音への反応がほとんどなくなったといいます。

「スピーカーを介したことで、本物のシャチの鳴音とは違うことに気付かれたのではないか」と松井氏は推測します。

次に試したのは光でした。2隻の船をロープでつないで、そこにはえ縄のように空き缶の蓋をずらりとぶら下げ、金属の蓋が反射するまばゆい光でイルカを追おうとしました。ところが、これは全く成果がなかったといいます。

たび重なる失敗に、飼育員らは焦ったことでしょう。次に考案されたのが突(つ)きん棒と呼ばれる手投げの銛(もり)による突き取りでした。捕獲するために銛を使ったことについて松井氏は「苦肉の策だった」と思い起こし、「イルカの傷を最小限に抑えるために矢尻を小さくし、深く刺さらないようにストッパーを取り付けた」と説明します。

松井氏らが1971(昭和46)年に鯨類など海獣の飼育者の会で発表した原稿には「熊野灘のバンドウイルカは日の出直後船舶にもっとも接近しやすく、午前7時以降になると殆(ほとん)ど接近しないため出来(でき)る限り早く群れを発見することが大切であった」とあります。

原稿では続いて「群(むれ)発見後は全速で群れにむかって進み、イルカの遊泳方向に対し船首が直角になるように操舷(原文ママ)した。群れとの距離100m(メートル)付近で中速、20m付近で微速にした時、バンドウイルカははじめて方向をかえて船にむかってきた。数頭が水面下約1mの深さで船首を横切ろうとする瞬間に背ビレ基底下附近を狙って投銛した(銛を投げた)」と記されていました。

銛は当たり、モッコと呼ばれる網でイルカを包みました。二人がかりで甲板に引き上げ、船を港へと走らせました。船の上ではイルカの傷口の消毒など治療もしたといいます。

飼育員らの試行錯誤によって、ショープールにバンドウイルカが姿を見せたのは、1970(昭和45)年5月22日のことでした。

(太地町立くじらの博物館館長 稲森大樹)

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