Infoseek 楽天

結果上々のルーマニア革命取材 突然、われに返り「どうやって帰ろう。足がない」 話の肖像画 報道カメラマン・宮嶋茂樹<22>

産経ニュース 2024年7月23日 10時0分

《初めての戦場取材となったルーマニア革命。混乱を極める現地からの脱出は困難を極めた》

1989年暮れのルーマニア取材は、週刊文春(文春)の締め切りもあり、取材地を首都ブカレストに絞っての短期集中でした。現地に着いたときは各地で市街戦が続いており、危険な現場にも普通に行くことができ、緊迫感ある写真が撮れました。群衆が最後まで押しかけていた革命広場は、戦闘は終わっても高揚感が漂っていました。

初めての戦場を無我夢中で取材していて突然、われに返りました。「どうやって帰ろう。足がない」と。事態は深刻でした。革命が起きた国ですから当然、空港は閉鎖。陸路は積雪で通行止めでした。いろいろな現場がカラーも含めて撮れたので、何が何でもフィルムを持って帰りたいと考えていました。

ルーマニアに着いたのが12月26日。年明けには、西ドイツの西ベルリン(いずれも当時)で、文芸春秋社の写真部員にフィルムを手渡すことになっていました。大みそかの早朝、真っ暗な空港に出向きました。そこで出会ったスウェーデンのテレビクルーと手分けし、3人で情報収集すると、空港は再開したものの、民間機は飛んでいないことが分かりました。

飛んでいるのは赤十字関係のチャーター機だけとのこと。ときおり到着する大型機には、ルーマニア国外への脱出を急ぐ、各国の大使館関係者などが乗り込んでいきます。直接交渉で空席を確保するのは難しい状況でした。途方に暮れて半日が過ぎたころ、アメリカ大使館の駐在武官から「イタリアのローマに飛ぶ便に3席空きがある」と聞き込みました。

出国手続きを済ませスポットに行くと、駐機していたのはイタリア空軍の輸送機「C130」。機内に暖房はなく金属の床は凍っていました。乗り込むときに耳栓を渡されました。エンジンの轟音(ごうおん)で、飛行中は会話などできません。遺体を収容した棺おけも一緒に積まれていました。そんな状況でしたが、出国できてホッとしました。

でも、目的地がローマと聞いて喜んでいたのに、降りたのは空軍基地。今度は基地の外で1時間ほどかけてタクシーを拾い、なんとかローマのレオナルド・ダビンチ国際空港にたどり着きました。そこから、ミュンヘン行きの最終便に乗り、ミュンヘンから夜行列車でハンブルクへ。その車中で年が明けたのを鮮明に覚えています。夜が明けてハンブルクに着き、その翌日、先輩の車で西ベルリンに行き、フィルムを無事に届け、仕事は終わりました。

そのときは、ベルリンの壁崩壊の真っ最中。壊された壁の破片を拾って土産にしました。

《ルーマニア革命が取材できた陰には、オウム真理教を追い詰める姿勢があった》

ルーマニア革命のとき西ドイツにいたのは、オウム真理教の元教祖、麻原彰晃元死刑囚らを取材するためでした。日本国内でオウム真理教が社会問題化したころから取材を続け、横浜の坂本堤弁護士一家が行方不明になった直後に、麻原元死刑囚らが出国。「乗り掛かった船」なので、自費で追いかけました。オウム真理教は文春も積極的に報道していたものの、さすがに海外取材までは認められませんでしたから。

ただ、文春からはルーマニア革命の取材で、原稿料をたっぷりもらいました。交通費全額以上のかなりの額でした。さらに文春を見たのか、戦車専門の月刊誌から写真を買いたいとの連絡が入りました。カラーもほしいと言われ、現地で撮影したポジフィルムを編集部に持ち込むと「全部使わせてください」と言われて驚きました。無我夢中でカラー写真を撮っていたかいがありました。

あの取材は、全くの見切り発車でしたが、結果的にうまくいきました。(聞き手 芹沢伸生)

この記事の関連ニュース