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30年ぶりの帰郷と民進党政府の誕生 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<27>

産経ニュース 2024年8月28日 10時0分

《李登輝総統の誕生で一気に民主化が進む。台湾独立運動のためにマークされてブラックリストに載っていたが、平成4(1992)年に中華民国のパスポートが復活した》

私が最後に台湾に帰ったのは昭和37(1962)年の夏休みで、前にも話したけどこのときは台湾独立運動の密使をやったりした。気づけばもう30年もの月日がたっていたわけ。台湾独立建国連盟のメンバーたちにもパスポートが交付された。こうした民主化の流れもあり、連盟では米国や香港などで活動している連盟の世界総会を台湾で行おうということになった。

ここで問題となったのが日本の連盟主席、黄昭堂にパスポートが出ていないこと。国民党はまだ黄昭堂を危険視していたのよ。でも機関誌「台湾青年」を刊行して、国際世論に台湾の民主化を訴え続けてきた日本のリーダーが世界総会に出席しないということはありえない。そこで一計を案じた。

私や許世楷たち連盟のメンバーはシンガポール航空の台北経由シンガポール行きの便で台北までのチケットだったんだけど、黄昭堂は同じ便のシンガポールまでのチケットにし、途中の台北で降りてしまおうと。台北の空港ではこの歴史的な帰郷を報道すべく、メディアが待っているはず。黄昭堂が台北の空港で降りても、国民党は衆人環視の中で不法入国として拘束するといった強硬手段はしないだろうという作戦だった。

《国民党政府の方が一枚上手だった》

出発の日、成田空港には台湾独立建国連盟を支援してくれた日台の国会議員やメディア、支援者たちが来てくれた。いよいよ作戦決行となり、シンガポール航空のカウンターで黄昭堂がチェックインしようとしたら、担当者が「あなたを乗せたらこの航空機は台北の空港でランディングできません」って言う。国民党は日本での出国前を狙っていた。私たちは抗議したけど、空港の担当者にそんな権限はないよね。黄昭堂の台湾行きは諦めざるを得なくなった。

黄昭堂の訪台断念は残念だったけど、30年ぶりに帰った台湾には感無量だった。独立運動の支持者や私が校長をしていた日本語学校の教え子たちが空港で歓迎してくれてね。一党独裁時代の台湾には恐怖感でいっぱいだったけど、全く違う雰囲気になっていた。もう二度と帰れないと思っていただけに胸がいっぱいになったね。

黄昭堂は不在だったけど世界総会は滞りなく行われ、民主化や台湾独立への意思を確認できた。かつての台湾では考えられないことよ。李登輝総統という指導者が誕生したことで、台湾の歴史が一気に変わっていくのを実感した。

《その後、野党・民進党が誕生、国民党一党独裁は終焉(しゅうえん)を迎える。李登輝総統が満期となった2000年3月の総統選では、台湾独立建国連盟のメンバーたちと民進党の陳水扁候補の応援に奔走し、初の民進党政府誕生に貢献した》

民主化の動きが加速するなかでも、私の夫、周英明は中華民国と書いているパスポートは絶対に取りたくないと言い続けていた。最前線の台湾に帰って戦うのは正しいけど、どうしても嫌なんだって。あの人、すごく優しい人だけど頑固なの。よく言えば主義主張を曲げない。

陳水扁さんが当選した総統選も周英明は東京の自宅でテレビで見ていて、涙を流して喜んでいた。私たちが台北でお祝いの会をやっていたとき、司馬遼太郎さんの「台湾紀行」に、博覧強記の実業家「老台北」として登場する蔡焜燦(さいこんさん)さんが周英明に電話してくれたのよ。「ぐちゃぐちゃ言ってないで、お前も帰ってこい」って。

周英明が40年ぶりに台湾に帰ったのはその年の8月。老台北のひとことで素直になってくれた。私が言ってもダメだったのにね。夫婦ってそういうもんなのよ。(聞き手 大野正利)

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