森永さんは1月28日に亡くなられました。令和6年12月の取材をもとに連載します。
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《自分に最も影響を与えた人物として、毎日新聞外信部の記者だった父、京一氏を挙げる》
おやじは私と同じ東京大卒です。ただ8年間も行っている。文学部に2回入ったと聞きました。戦時中だったので、海軍予備学生に動員されていたんです。
おやじは実は被爆者なんですよ。広島沖で蛟龍(こうりゅう)という特殊潜航艇の訓練をしていて、ハッチを開けて外を見たら、ちょうどそこに原爆が投下された。真っ青な空にキノコ雲が上がって、金属片がキラキラ輝いていた。「なんだ、このきれいなものは」とずっと見つめていたそうです。その間、ずっと被曝(ひばく)してしまった。
このことを聞いたのはかなり晩年になってからです。当時、被爆者は差別されましたから、ずっとひた隠しにしていたようです。
《京一氏は頑固一徹。とにかく正義感の強い人だった》
おやじはジャーナリストとして、やらせなんて絶対に許さない人でした。
ジュネーブ支局長時代の話ですが、毎日新聞の日曜版で世界各地の名所史跡を紹介するコーナーがあったんです。
おやじが「ベルンの時計塔の前で子供たちが遊んでいる写真を撮る。家族みんなで行こう」と言い出した。
今では高速鉄道が通っていますが、当時はなかった。それで週末の夜明けにジュネーブから車でベルンの時計塔に向かったんです。片道4~5時間はかかったんじゃないかな。
おやじは支局長として、記者もカメラマンも1人でこなしていました。変わった人で、いつも写真を撮るのに1回しかシャッターを切らない。多くて2、3回。で、時計塔に着くと三脚を立てて、カメラを構える。そして、じっとシャッターチャンスを待つんです。
母や私たち子供は観光に出かけて、夕方ごろに時計塔に戻ってきた。「写真は撮れた?」と聞くと、おやじは「今日はチャンスがなかったね」と言うんです。一日中カメラの前に座っていて、一度もシャッターを押していなかったんですよ。
そんなの、近くにいる子供たちに「ちょっとカメラの前で遊んでくれる?」と声をかければ、すぐに済むじゃないですか。ジュネーブの前はウィーンにいたので、私だって多少のドイツ語は話せた。だから、私に頼めばわけはないんです。
でもおやじは「それは絶対にやってはいけない。〝やらせ〟だ」と聞き入れないんです。
仕方ないので、翌週にまた、何時間もかけてベルンまで行きましたよ。それで、ようやく望み通りの写真が撮れました。そんなおやじだったんです。
《京一氏の一徹さは、ときに家族を経済的に追い詰めた》
おやじは偏屈でした。そのせいもあって、うちはすごく貧乏だったんですね。
あるときおやじが、確か歴史学者のアーノルド・J・トインビーの著書だったと思うんですが、本1冊の翻訳を引き受けたんです。翻訳料が何百万円という、わが家にとってはとてつもない大金でした。
でも、原稿がほとんど出来上がった最終段階で、編集者と内容をめぐって大げんかになってしまった。それで怒ったおやじは、マンションの敷地内にあった焼却炉に、原稿を全部放り込んでしまったんです。
目の前で何百万円が燃えていくのを横で見ていました。「ああ~」って。あの光景は忘れられませんね。
強い正義感と闘争心。私の中でおやじから受けた影響というものは、非常に大きな存在だと思います。(聞き手 岡本耕治)