明治の文豪・夏目漱石が松山市に滞在中、同市出身の俳人・正岡子規と一時同居していた「愚陀仏庵(ぐだぶつあん)」を、市が子規の母校である市立番町小学校の一角に再建すると発表した。愚陀仏庵は先の大戦で焼失し、昭和57年に復元されたものの、平成22年の土砂崩れで倒壊した。市が推進する「文学のまち」の拠点施設として活用する方針で、漱石の代表作で松山が舞台の小説「坊っちゃん」発表から120周年にあたる令和8年夏の完成を目指す。野志克仁市長は「俳都・松山の象徴にしたい」と話している。
近代俳句に新風
愚陀仏庵は、愛媛県尋常中学校(現県立松山東高校)に英語教師として明治28年4月に赴任した漱石が同年6月~翌年3月まで暮らした下宿。松山市中心部にあった木造2階建てで、この地での暮らしは後に漱石の代表作の一つで松山が舞台の小説「坊っちゃん」の題材になったとされる。
一方、子規は当時、東京で新聞記者として働いていたが、日清戦争従軍中に喀血(かっけつ)し、病気療養のため故郷の松山に帰省。その際、東京大学予備門時代から親交の深かった同い年の漱石の住む下宿に転がり込んだという逸話が残っている。
子規が療養を終えて東京に帰るまでの52日間の様子について、漱石は著書『正岡子規』で、「僕は二階に居る、大将(子規)は下に居る。其のうち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のやうに多勢来て居る」と記している。
実際、子規はこの時期、後に俳誌「ほとゝぎす」を共同創刊した柳原極堂や、全国初の子規派の地方結社「松風会」で活動した中村愛松らと俳句の研究に没頭。愚陀仏庵から近代俳句の新風が起きた。漱石も子規らともに俳句に親しみ、子規から「愚陀仏」の俳号を譲り受けたとされる。
市立子規記念博物館の平岡瑛二学芸員は愚陀仏庵について、「漱石と子規という近代日本文学を代表する2人が交流し、お互いに影響を与えあった場所」と説明する。
「適地なし」で断念
愚陀仏庵は松山市中心部に大きな被害をもたらした昭和20年7月の空襲で焼失。県が当時の資料などをもとに、57年に松山城の南西に立つ大正時代の洋館「萬翠荘」の敷地内に復元した。
ところが、平成22年の大雨による土砂崩れで復元された施設が全壊。県と市は再建に向け復元検討連絡会議を立ち上げて本来の跡地、萬翠荘敷地内、道後温泉周辺の3案を検討したが、安全性や費用面などから「適地なし」と判断し、計画は白紙に。29年には跡地の所有者も再建する意向を表明したが断念していた。
市は再建に向けて検討を続ける中、番町小学校が、水泳の授業を近隣の民間施設で行うことを決定。学校敷地内のプールは老朽化に伴って撤去することになり、その跡地に再建することにした。
広く親しまれる施設に
建設地の面積は約480平方メートル。設計図が残っていないため、当時の写真や資料、復元施設の設計図などを参考にしてできるだけ忠実に再現するという。付帯施設として事務所や展示・交流、多目的スペースを持つガイダンス棟、中庭を設けることを想定。総工費は未定だが、国の補助金を活用し、来年度当初予算に必要な費用を計上する。
番町小学校は子規をはじめ俳人の高浜虚子、河東碧梧桐らを輩出。子規や碧梧桐の生誕地、虚子の住居跡など近い範囲に松山の文化、俳句のルーツが詰まっており、同校はその中心に位置する。
句会や茶会といった文化活動や児童・生徒らの俳句創作、東京の子規庵などとの連携も進め、文学のまちを発信する憩いの場として活用。集客力の向上によるにぎわい創出や地域経済への波及効果にも期待を寄せる。
野志克仁市長は昨年12月24日の定例記者会見で「愚陀仏庵は(漱石と子規の)2人が過ごした唯一の建物で市の宝。その文学的価値を引き継ぎながら広く親しまれる施設を目指す」と述べた。(前川康二)