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明太子で福岡を元気に ドラマ「めんたいぴりり」を企画した「ふくや」社長の川原武浩さん 一聞百見

産経ニュース 2024年8月16日 14時0分

福岡・博多の代名詞といえば辛子明太子。最初に商品化したのは「ふくや」(福岡市)とされている。創業者は製法を公開、あえて「元祖」は名乗らなかったことで、個性を競う明太子のブランドが続々生まれ、今日の隆盛につながった。5代目の現社長は劇団を主宰する異色の経営者。「博多」の価値を高めるM&A(企業の合併・買収)で地域に貢献する。

JR博多駅周辺や福岡空港でお土産に明太子を物色すると、ふくやのほかに「かねふく」「やまや」「福さ屋」「福太郎」「かば田」「稚加榮(ちかえ)」「椒房庵(しょぼうあん)」などなどそのブランドの多さに驚かされる。

明太子を最初に商品化したのはふくやの創業者、川原俊夫。現社長、武浩(52)さんの祖父である。俊夫は幼少期、今の韓国・釜山で過ごした。当時食べた「たらこのキムチ漬」の味が忘れられず、これをヒントに明太子の製造を思いついた。

昭和23年10月、戦後の焼け跡が残る中洲の一角で食料品店「ふくや」を創業。翌年1月10日、明太子の製造販売を始める。

「日本では辛いものになじみが薄く、水で洗ってから食べる人が多かったらしい。大量に売れ残り、捨てる日々が続きました。研究を重ね、満足のいく商品に仕上げるのに10年かかりました」

唐辛子にはこだわり、工夫をこらした微粉唐辛子を京都の専門店に特注した。

やがておいしいと評判が立ち、行列ができ、売り切れが続出。口コミで観光客や出張中のサラリーマンも買いに来た。

「あの吉田茂、白洲次郎がパンに塗って食べたという話があります」

占領下の日本で、西鉄ライオンズがプロ野球に参入するには連合国軍総司令部(GHQ)の許可が必要で、交渉を有利に運ぶために西鉄職員が地元の国会議員、麻生太賀吉に吉田茂首相と側近の白洲次郎を紹介してもらった。その手土産に明太子を持参したという逸話が残る。

人気の明太子を求め、お客が近所の店に間違えて来店するようになる。「うちの店でも売ろうか」と提案すると、俊夫は「卸販売はしない。おたくも明太子をつくればいい」と勧め、仕入れ先から材料、製造法まで包み隠さず教えた。だが、調味液の味付けだけは絶対に明かさなかった。

「それぞれが独自の味を創り出せば、より多くの人の好みに対応でき、明太子が一般的な食品として普及すると考えたからです」

思惑通りというか、次々に明太子メーカーが誕生したが、それはライバルが増えることでもあった。

「せめて看板や包装紙に『元祖』とつけたらと提案されても『元祖』と書けばおいしくなるのかと聞かない。最初につくったとか、売り上げが一番とかではなく、その時代が求める最もおいしい明太子をつくるメーカーがナンバーワンなんだと」

昭和50年3月10日、新幹線博多-東京間の全線開通がきっかけで各社の明太子が東京のデパートなどでも売られるようになる。ふくやも個人商店にとどまらない規模に成長。工場を新設、従業員もどんどん増えていった。

「節税のため法人化を勧められると、道路も橋も学校も全て税金で賄われていると怒った。納税は恩返し。戦争に参加した一人として焼け野原の日本を立ち直らせるために多く納税することが生涯の目標でした」

俊夫は昭和54年、福岡市の納税者番付で1位となり、その翌年、67歳で亡くなった。孫、武浩さんは8歳である。

「味は守らず進化」を胸に

商品名は創業時から「味の明太子」。

俊夫は作り方を公開したが、味付けは明かさなかった。自らが満足する味を完成させるのに「10年かかった」という。味には絶対の自信があったに違いない。

しかし「味は守るな、進化させろ」と言い残した。妻の千鶴子、次男の健、三男の正孝、そして孫の5代目社長、武浩さんはこの言葉を家訓として守り続ける。

明太子はスケトウダラの卵巣を漬け込む調味液で味が決まる。そのレシピは門外不出だ。唐辛子の原料や仕入れ先は公開されているから、唐辛子のブレンドの比率と隠し味が秘中の秘ということになる。

「一族で1人(会長)、工場で1人(製造責任者)しか知ることができない。社長の私はまだ知らされていません」

2人が同時に亡くならないようリスクを回避している。2人が同じ列車や飛行機で移動することはない。

時代とともにお客さまが好む味は変わるから微調整している。景気によってもお客さまの感覚は変わるという。

「景気が良くなると辛すぎないようにする。悪いと辛い方によせています」

お客さまの好みを探るべくアンケートをとるが、最近は書いてくれる人が少なくなった。直営店でていねいに聞き取るようにしている。鮮度、味を保証するため、製造直販がふくやのこだわりだ。

近年、贈答品は減少している。さまざまな加工品を商品化することで売り上げを補ってきた。

大ヒットは「販売数850万個突破」の缶詰「めんツナかんかん」。ツナはフレーク状にした国産ビンナガマグロを使い、「味の明太子 レギュラー(辛口)」の漬け込み液で味付けした。

「油がツナにうまく合った。ほんと、ごはんに合うんですよ」

当初、外部に生産を委託しようとしたところ、製造直販で守ってきたブランドの毀損(きそん)を危惧した社内には抵抗もあった。しかし、5代目は決断した。

「何でも自前でやることはない。その道のプロ、委託先のノウハウをがっちゃんこすることでスピードが上がり、ラインアップも増えました」

明太子の原材料はスケトウダラの卵巣。オホーツク海やベーリング海、アラスカ沖などで取れたものを使用する。地球温暖化で生息域が北上しており、今後も漁獲量が維持されるかどうか懸念される。

地政学的なリスクもある。「ロシアのウクライナ侵攻で、ロシア産が確保できるか心配したが、なんとか入手できました」

インバウンドで海外の旅行者が買ってくれるのはありがたいことだが「中国本土の人が食べ始めると、買えなくなるかもしれない。入札でだれでも買えるから」。中国メーカーによる商品が市場に出回り始めたらどうなるか。業界は中国展開に積極的ではない。「寝た子は起こさずにしておこう」ということのようだ。

原材料が減っても、加工品を増やすことで売り上げを確保することはできる。

「何かと混ぜる、使う量を減らす、明太子味の商品を増やせばいい。加工品なら保存がきく。輸出拡大も見込めるでしょう」

創業者が求めた「進化」を肝に銘じる。

地元・福岡の価値高めたい アビスパ支援 再生に一役

平成25年、地元放送局・テレビ西日本(TNC)でふくやをモデルにした連続ドラマ「めんたいぴりり」が放映された。戦後、満州から引き揚げてきた俊夫、千鶴子夫妻が明太子の商品化に成功する物語で、博多華丸、富田靖子が夫妻を演じた。

創業70周年にあわせて、5代目社長の武浩さんが企画をTNCに持ち込んだ。その際、自身が学生時代にのめりこんだ演劇の人脈が生きた。監督を務めた江口カンは友人だ。福岡を舞台に福岡ゆかりのスタッフ、キャストで「福岡産」のコンテンツを制作したかったという。

ドラマは高視聴率を記録し、27年の続編放映にあわせて舞台化、31年に映画化、その続編が令和5年に上映された。

「家業を継ぐ気はまったくありませんでした」

武浩さんは高校で演劇部に入った。大学進学後も演劇を学ぶためロンドンに留学。帰国後の平成10年、演劇専用劇場、博多座(福岡市)に入社し、「劇場の立ち上げから携わり、充実した日々を送りました」。11年には劇団「最新旧型機クロックアップ・サイリックス」を結成し、今でも代表、脚本、演出を務めている。

「演劇を一生の仕事にする」と決めていたある日、叔父でふくや社長(現会長)、川原正孝さんに請われ16年、家業を継ぐべく、ふくやに入社、コンサル会社に出向を命じられ、マネジメントを学んだ。

18年、ふくやの子会社で、ホール、ホテル併設の福岡サンパレス(福岡市)の再建を託され、社長に就任。わずか1年でV字回復、黒字経営に転換させ、翌19年、ふくやに取締役統括部長で復帰。「何でもやらされた。すべて見ろということでした」

当時、経営課題は山積していた。贈答品としての明太子は減少し、家庭用へシフトしていた。「過去の成功体験にしばられ、改革が遅れていた。価値あるものを適正価格で利益を確保する必要がありました」

一方、救済を求められてM&A(企業の合併・買収)にも乗り出した。明太子も扱う業務用食材卸、鳴海屋(福岡市)、明治38年創業の菓子店、石村萬盛堂(同)、焼酎メーカーの紅乙女酒造(福岡県久留米市)などである。

「自社の成長を求めてというより、福岡からその会社、お店がなくなると困るから支援しました」

そういう趣旨で、最も注目されたのはプロサッカークラブ、アビスパ福岡への支援だろう。

Jリーグ加盟以来、赤字経営が続き、福岡市や九州電力など地元有力企業が支えてきたが、平成25年に債務超過の危機に陥る。「選手の給料も払えない」との報道に衝撃が走った。

ふくやはアビスパとタイアップした商品を販売、売り上げ全額を寄付した。

「ふくやからまとまったお金を出せば、一時的に危機から脱せますが、近い未来にまた危機にひんすることは火を見るよりも明らかでした。売上金の寄付を考えたのは、できる限りたくさんの人が関わること、それが目に見えることが大事だと思ったからです」

これをきっかけに支援企業が増え、アビスパは経営破綻を免れる。10年後の令和5年にはルヴァンカップで優勝、初めてタイトルを手にした。

「サッカーは世界に通じるコンテンツといえる。目指すはマンチェスター・ユナイテッドです」

英国のマンチェスターは人口50万人程度の都市にすぎない。そこをホームに戦う世界的に有名な強豪チームが、都市の価値を高めることに貢献している。

武浩さんはアビスパの取締役を務め、ふくやはスポンサーの1社として支援を続けている。

「福岡を元気にみせておきたい。福岡あっての明太子、ふくやですから」

かわはら・たけひろ 昭和46年、福岡市生まれ。国学院大卒。英国留学後、平成10年に演劇専用劇場、博多座に入社。16年、祖父が創業したふくやに入社。経営を学ぶためビジネスコンサルティング会社に出向後、18年、音楽ホールとホテルを運営する福岡サンパレスの社長に就任、経営再建に成功。19年、ふくやに取締役統括部長で復帰、副社長を経て29年から現職。劇団「最新旧型機クロックアップ・サイリックス」の代表も務める。

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