Infoseek 楽天

古代東北の8城柵が「御城印」を一斉に無料配布 多賀城創建1300年記念で初の実施

産経ニュース 2024年9月29日 10時0分

陸奥(むつ)国府多賀城創建1300年を記念して、東北地方の城柵(じょうさく)のうち多賀城=宮城県多賀城市=や払田柵(ほったのさく)=秋田県大仙市=など8城柵が御朱印ならぬ「御城印(ごじょういん)」を10月1日から一斉に無料配布する。出土品の文様などを色刷りした和紙に城柵名を印刷した公式のもので初の実施。各城柵1300枚限定だが、今後は有料販売も検討しており、今回入手できなくても御城印を集めながら城柵巡りをするのも一興だ。

鳥の子和紙で

多賀城創建1300年記念事業実行委が呼びかけたもので、参加城柵はほかに牡鹿(おしか)柵=宮城県東松島市、伊治(これはり)城=同栗原市、胆沢(いさわ)城=岩手県奥州市、徳丹城=同矢巾町、志波(しわ)城=盛岡市、城輪(きのわ)柵=山形県酒田市。秋田城=秋田市=は同市の都合で参加していない。

御城印の台紙は竹簀(たけす)の目が浮き出る鳥の子和紙で、B6判(縦約18センチ、横約13センチ)。背景は、多賀城が陸奥国印と復元中の外郭南門を朱色で、払田柵は出土した平瓦の渦巻文と復元した外柵南門を若草色で、牡鹿城は出土した墨書須恵器と牡鹿、伊治城は出土した軒丸瓦の同心円状の重圏文をともに赤で。

胆沢城は出土した鬼瓦と映像復元した外郭南門、徳丹城は発掘調査から推定した復元図をそれぞれ朱で、志波城は政庁の復元鳥瞰(ちょうかん)図と復元した外郭南門を紫、城輪柵は出土した軒丸瓦の宝相華文と軒平瓦の花文、それに復元した政庁南門を青で描いている。

今後は有料販売も

中央に大きく墨書体の城柵名、右上に小さく「多賀城創建千三百年記念」、左下に「令和年月日」があり、日付は自分で入れる。

実行委事務局で多賀城市市民文化創造課の鈴木里菜さんは「公式な御城印作成は初めてで、8月に多賀城市で試行配布した際は2時間で700枚がなくなった。一斉配布は各城柵1300枚限定だが、今後は有料販売を検討する」といい、価格は500円前後になりそうだという。

大仙市文化財課の星宮聡仁さんは「例えば払田柵跡は周辺が開発されず古代のままの景観が残る。御城印を集めながら東北に多く残る城柵巡りを楽しんでは」と話す。御城印の配布場所の問い合わせは各市文化財担当部署へ。

当時の様子

多賀城は奈良時代初期の神亀元(724)年に朝廷が創建。陸奥(青森、岩手、宮城、福島県と秋田県鹿角地域)の国府として平安時代まで政治・文化・軍事の中心を担った。付属寺院跡などとともに国特別史跡になっている。

多賀城以外の城柵はすべて国史跡。伊治城は多賀城創建の40年余後、北約50キロに造営。朝廷に帰順して統治に協力した蝦夷(えみし)族長、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が後に反乱を起こしたことでも知られる。

牡鹿柵は多賀城創建まもなく、北方の牡鹿郡を治めるために造営された。

胆沢城は平安初期の延暦21(802)年創建後、多賀城から軍政の鎮守府が移されて陸奥国北半を統治。朝廷は翌22年に陸奥国最北・最大級の志波城を造営したが、水害のため約10年で10キロほど南に規模を縮小し徳丹城として移転した。

胆沢城などと同時期造営の払田柵は、歴史に登場する城柵にまだ同定されておらず、この名称は地名によるものだが、政庁配置や全体の広大さから国府級だったとする説もある。

城輪柵も名称は地名からのもので、平安時代の出羽国府とする説がある。奈良時代に国府格上げ前の出羽柵が秋田城に遷る前に置かれていたとする説もある。

東北地方は奈良・平安時代に朝廷が多くの城柵を造営しており、発掘調査や分析が進み、当時の建物や地方政治、生活の様子が徐々に明らかになってきた。(八並朋昌)

城柵 奈良・平安時代の朝廷が本州北東部を統治した政治・文化・軍事の機能をもつ官庁。政庁、外郭、外柵と幾重にも塀で囲って幅9~12メートルの大路で結び、迎賓館や付属寺院などもあった。史跡範囲は多賀城跡が約107万平方メートル、払田柵跡で約88万平方メートルと広大。

この記事の関連ニュース