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大阪名物「魚すき」の老舗料理店九代目はアーティスト 丸萬本家・後藤英之さん 一聞百見

産経ニュース 2024年7月19日 14時0分

江戸時代から大阪で続く「魚すき」の名店の九代目が美術家であると知ったのは、つい先日のこと。丸萬本家社長の後藤英之さん(61)である。立体作品で賞を取った「アーティスト」であり、老舗を切り盛りする「料理人」。後藤さんがその2つの顔を持つに至るまでの半生とは。

その店は、大阪・帝塚山の住宅街に目立たぬようにたたずむ。献立は名物「魚すき」と「鯛めし」。それを味わうことができるのは一日数人の予約客のみ。完全予約制でちょっと隠れ家っぽい風情もある。

「『魚すき』は鉢の中に魚の切り身とだしを入れ、山椒を振って鉄鍋に移し、それを具と一緒にたき上げていく料理で魚はタイ、サワラ、ブリ、ハモなど季節によって変わります。具は生麩、ねぎ、白菜、しらたき、豆腐などです」と後藤さん。明治の料理店案内に丸萬本家の名物として「海魚すきやき」が紹介されているので、歴史ある調理法であるのは間違いない。

丸萬本家の歴史は、幕末にさかのぼる。創業は元治元(1864)年。大坂・戎橋の南詰めに能登国(石川県)からやってきた初代が店を開き、魚すきの味は六代店主までに完成されたといわれる。

魚すきは瞬く間に名物となり、昭和4年には店が洋館に建て替えられるほどの繁盛を見せた。「織田作之助の小説『夫婦善哉(めおとぜんざい)』で紹介される10年ほど前で、店の全盛期だったそうです」

平成25年、織田作之助の生誕100年を記念してNHK大阪放送局が制作した尾野真千子と森山未來主演のドラマ「夫婦善哉」では、この頃の雰囲気を伝える丸萬本家の洋館の写真を基に造られたセットもあったそうだ。

その洋館は戦災で倒壊したが、店は戦後も続く。後藤さんの父、隆平さん(93)は六代目店主である祖父を手伝うことになった。隆平さんは京都の老舗高級懐石料理店「辻留」で修業を積み、初代辻留次郎の助手として松下電器(現パナソニック)の創業者、松下幸之助邸に出入りしたこともあるほどの料理人だったのだが-。

「父は行動美術協会の洋画家、小出卓二さんに絵を習っていたのですが、祖父に『絵では食べられないから』と言われて…」

その長男としてミナミで幼少期を過ごした後藤さんは、著名な芸能人が店をひいきにしてくれていた頃のことを、今も覚えている。

「昭和40年代初め、中座(道頓堀の近くにあった劇場)が全盛期だった頃です。役者や劇作家がよく店で懇談されていました。戎橋の店は先代の渋谷天外さんや藤山寛美さんがお見えになっていました。新国劇の辰巳柳太郎さんや緒形拳さんがおいでになったことも。一番かわいがってもらったのは、かしまし娘の正司花江さんで、抱っこしてもらったこともあります。鰻谷(うなぎだに)の店には、歌手の舟木一夫さんも来られていました」

当時、日本は高度経済成長の真っ最中。中座で芝居や寄席を見た客が、魚すきや鯛めしを食べて帰るという小粋な時代、大阪一の繁華街で華やかな幼少期を後藤さんは過ごしていたのだった。

挫折から模索したアートの道

華やぐ大阪・ミナミの街で育った子供たちにも、困ることはあった。「遊ぶ環境に恵まれていなかったんです」と後藤さん。遊び場がないから、小学校時代は百貨店の中を走り回ったり、建物の隙間に入り込んで秘密基地にしたりと、とにかく工夫をした。

中学に入る前、ミナミの繁華街から住宅街に引っ越した。通ったのは勉強もスポーツも奨励する私立中学。「裕福な子弟の多い学校でした。そこに入ったのですが、私は勉強もうまくいかず、剣道部もやめて不安な日々を送っていました。何をしていいのか分からなかったのです」

周りには全国模試トップクラスの生徒たちもいたのだという。

「3年生のときには、昼休みにおなかが痛いといって学校をサボったこともありました」

そんな具合だから、進学先の高校もなかなか決まらなかった。

ある日、大阪市立(現府立)工芸高校を見学したとき、「この学校、いいな」と思ったそうだ。

「小学校の頃から絵はうまかったんです。ここだと美術デザインの学科もある。父に話すと『美術だけじゃだめだ、メシが食えるようにデザインをやっとけ』というので当時の図案科に進みました」

もちろん、そこではグラフィックデザインやアートディレクションが学べると期待したのだが、いざ入ってみると線引きやレタリングなど、基礎訓練ばかり。

「職人養成のように固められるのは窮屈で、ジレンマがありました」

友人と実家でアルバイトをしてはロックコンサートに行ったり、バンドを組んでドラムをたたいたり無軌道な高校時代を過ごした。

「将来が見えない不安があったんです。甘えている部分もあったのでしょう」

家業をやっていくのも、クライアントの依頼で仕事をするデザインの世界に進むのも違う。そう感じたとき、後藤さんは「大学で油絵を目指そう」と思った。

しかし、1年目、2年目と関西の美術系大学受験に全敗。結局、親元を離れ、東京の予備校に入って3浪の末、多摩美術大学美術学部油画専攻に合格した。

「油画専攻は3浪が多かった。画家の黒須信雄とは同い年。結構、メンバーでグループ展をしていました」

当時、絵画は米国のニュー・ペインティング(新表現主義)全盛期。しかし、美術家の李禹煥(リウファン)氏や美術評論家の峯村敏明氏らの講義を受けたことにより、関心は絵画から立体へと傾いていった。

「もの派(自然物、人工物を用い、物と空間との相互依存的な関係性に注目した作品を提示したグループ)に接触したことで衝撃を受け、そこからアルテ・ポーヴェラ(「貧しい芸術」を意味するイタリアの美術動向。もの派と共通点が多い)を知り、これだと思ったんです」

後藤さんは、アルテ・ポーヴェラの作品が示す、そぎ落とすことの美にひかれていった。

実業と天職、二足のわらじ

大学を出て、しばらくして大阪に戻った。当初は大学で教えながら、大阪の番画廊や信濃橋画廊といった有名なギャラリーに平面作品を並べていたが、作るものは次第に立体へと移行していった。

「ロープに火をつけ、焦げ跡が残ったものとか、球体を割った半球体など、KOWAREMONO(こわれもの)シリーズと呼ぶもので、破壊と再生を意味する作品です」

平成2年11月、かつて宗右衛門町にあったキリンプラザ大阪で開かれた若手作家のための個展「ART TANK」に出品した作品群は、その代表的なものだろう。

さらに、パブリックスペースへと興味を広げ、4年には修景芸術研究所という会社に入り、彫刻家、三沢憲司氏のもとで滋賀県の琵琶湖畔にある公園の整備を行うなど、土木建築の現場で業者として仕事をすることで、さまざまな知識を身に付けていった。

「石一枚を張るところから始めて、全国を回りました。土木屋さんのような仕事なので、心身ともに鍛えられました」

その間も個展を開いたほか、グループ展に出品、評価を得て7年度には若手芸術家の登竜門である大阪市の「咲くやこの花賞」を受賞した。独立後はさまざまな橋梁のプロジェクトを手掛けながら、大阪市の地下街「クリスタ長堀」の壁画レリーフを制作するなど、公共スペースへも活躍の場を広げてゆく。

そんな折、丸萬本家七代目である後藤さんの父、隆平さんの兄が亡くなった。跡継ぎはいない。そこで、大阪の食の遺産ともいうべき「魚すき」の伝統を守るため、隆平さんが八代目を継ぐことになった。平成19年のことである。後藤さんも45歳で講習に通い、調理師免許を取った。7年前には高齢の父を継ぎ、九代目を名乗った。

「私にとってアートは天職、会社(丸萬本家)は家業です。家業『魚すき』はアート同様、短期間でできたものでなく、長い時間をかけて多くの人に支えられてきた、他の文化や芸能とも関わりを持つ大阪の食の文化遺産。なくすわけにはいかない、引き継ごうと思いました」

4年前には堺市にも店を出すなど「家業」は順調だ。店に立つときは、店主として作業着姿で調理も行うが、Tシャツに着替えて上の階に行けば、そこには「天職」の世界が待っている。大阪・帝塚山の店舗の2階はアトリエになっている。

家業をしながら続けてきた天職の方も、次第に作品が増えてきた。3月、そうした絵画、彫刻などの写真に自作の詩をつけた詩画集「いっぱいあるよ どれでもいいよ」を千部、自費出版した。

「詩はこれまで書いたことがなかったのですが、作品のことをもう少し分かってもらいたいなと思って」

跳ねるような言葉のリズムを大切にしたのだという。「若い人に読んでもらって、『これしかない、次はない』ではなく、『失敗したって次もある』と感じてもらえれば」

来年には個展も考えている。「音と映像の作品も出してみたいという夢がありますね」

二足のわらじで夢に歩む。

後藤英之(ごとう・えいじ)

昭和37年9月、大阪市生まれ。多摩美術大学を卒業後、グループ展、個展で立体作品などを発表。平成8年には次代の芸術文化を担う若手を顕彰する大阪市の咲くやこの花賞(美術部門)受賞。公共彫刻でも表彰を受けた。7年前から「魚すき」で有名な家業の丸萬本家を継ぎ、美術と料理の二足のわらじで奮闘中。

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