美術史家で大阪大学名誉教授の橋爪節也さんが、『翼のある大阪 近世近代美術史論集』(創元社)を刊行した。日本美術史における研究が立ち遅れていた大阪画壇の再評価を目指し、近世から近代にかけ独特の優れた作品を生み出した背景や魅力に迫る。
軽視されてきた歴史
「大阪に画壇なんてあったの?」
以前、橋爪さんが東京や京都でよく耳にした言葉だという。「例えば、美術全集一つとっても東京、京都に押されて大阪は入る余地がなかったり、大阪の画人や画題の研究は地味な領域として敬遠されがちだったり、大阪画壇は軽視されてきた」と語る。
本書はそんな大阪画壇を顕彰すべく、東京や京都とは異なる独自の世界を展開した画家や美術作品を広く論じている。
大阪画壇が後塵を拝した理由はさまざまだが、一つには東京芸術大や京都市立芸術大のように、明治期から続く国公立の美術学校が大阪になく、作品の収集や画家の養成が手薄になったことがある。さらに、近現代美術を所蔵する大阪中之島美術館が構想から約40年を経てようやく2年前に開館したが、その間の発信力は弱かった。
大阪といえば「お笑い」であり、コテコテ、漫才、タコ焼き。そうした紋切り型の大阪論の氾濫によって大阪の美術が片付けられていった、という説もあるのだとか。
個性豊かな画家たち
だが、橋爪さんは「大阪には、個性豊かな画家たちが才能を発揮してきた歴史がある」と強調する。
商業都市として、東京や京都とは異なる独自の文化を発展させ、江戸期には文人画家の木村蒹葭堂や、南画家の十時梅厓らが大阪画壇を支えてきた。近代の日本画では、妖艶な美人画で知られる北野恒富、菅楯彦、矢野橋村らが活躍。島成園、木谷千種といった女性画家が躍進したのも大阪の特色だ。
洋画では信濃橋洋画研究所を開設した小出楢重や国枝金三、鍋井克之のほか、フランスで客死した佐伯祐三、戦後「具体美術協会」を結成した吉原治良らが挙げられる。現代では、名画の登場人物や映画俳優らにふんしたセルフポートレート写真で知られる森村泰昌らの活躍が際立つ。
「大大阪モダニズム」
大阪は大正末期から昭和初期にかけて、「大大阪」時代を迎えた。大正14(1925)年の市域拡張によって、面積、人口ともに当時の東京市をしのぐ日本最大の都市となり、人口規模ではニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ世界6位の都市に数えられた。
大阪市は近代的な都市計画が描かれ、幹線道路の御堂筋の拡幅や、地下鉄の整備など、大都市としてのインフラ整備が進んだ。橋爪さんは「かつて東京を抜いて日本最大の都市だった大阪で、文化芸術が花開いたことは自明」と主張する。
一方で関西の近代の美術を語るとき、よく使われるのが「阪神間モダニズム」というキーワードだ。この言葉が有名になったのは神戸、西宮、芦屋といった兵庫県下の各市にある美術館で、地元のモダニズム文化が顕彰され、広く拡散されたためだという。
「それにもかかわらず、大阪圏の美術を論じて阪神間モダニズムの言葉が無批判に使われる傾向がある」と指摘。大阪の美術を豊かなものにした大大阪時代を踏まえ、大阪都市圏の文化芸術からライフスタイルにいたる全てを対象に、「大大阪モダニズム」と呼ぶことも提唱している。
美術を起点に大阪ひいては関西の社会や風俗、生活に関する文化論としても読めて味わい深い。(横山由紀子)
はしづめ・せつや
昭和33年、大阪市生まれ。東京芸術大大学院修士課程修了。大阪市立近代美術館(仮称)建設準備室主任学芸員、大阪大総合学術博物館教授などを歴任。著書に『モダン道頓堀探検』『大大阪イメージ』『橋爪節也の大阪百景』『原寸復刻「浪花百景」集成』、共著に『戦後大阪のアヴァンギャルド芸術』など。