Infoseek 楽天

存在わずか10年、謎深まる長岡京 交差点発見で浮かぶ「巨大都」か天皇の「遊宴空間」か

産経ニュース 2024年10月16日 10時0分

旧来の政治から転換を図りたい桓武天皇が平城京から都を移した長岡京(784~94年)。その北の外れから京内と同じ規格の道路交差点跡が出土し、話題となった。都の北方に京内と同じ碁盤の目状に区画された街の存在を物語る発見といえ、一部専門家は従来の都の範囲がさらに広がる「大長岡京」の可能性が高まったと指摘する。これに対し異論もある。わずか10年しか存在しなかった謎多き都。今回の発見で何が分かってきたのか、検証した。

京外にも碁盤の目

長岡京北端の外れの、中央のやや東寄りに隣接した京都市南区の遺跡を約800平方メートル調査すると、京内の南北道・東二坊坊間小路が京外へと伸び、北端から北120メートルの地点で東西道と交差したことを示す道路跡が出土した。

交差点は道路で四方を区画した地割が行われていたことを示す証拠で、京内と同じ土地区画「1町」(120メートル四方)に見合う区画が京外でも行われていたことになる。

これまで長岡京外で道路側溝跡が出土した例は複数あるが、交差点跡が確認されたのは初めて。東西道の両脇から出た両側溝の間隔から道路幅は、北京極とされる小路と同じ9メートルと判明した。

発掘調査を担当した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄調査課長は「従来の都の形の見直し時期に来たのかもしれない」。近畿大の網(あみ)伸也教授(考古学)も「『大長岡京説』につながる(発見)。今回の道路の北からさらに大規模な道路が出れば、(大長岡京説は)より確実になる」と期待する。

長岡京は平城京や平安京と同様、中心施設が都の北端中央に位置する「北闕(ほっけつ)型」と考えられてきた。しかし今回の発見で藤原京跡のように、中心施設を都の中心に配置する「中央宮(きゅう)闕(けつ)型」の可能性が出てきたのだという。

大長岡京か?

網教授の考えをかみ砕いて紹介したい。

元来、都城の外周は幅20メートルほどの大路で囲まれるのが通常だ。だが、長岡京の北京極想定ラインの道路は幅9メートルと小路クラスという点に謎があった。

平城京と平安京の大路間には原則3本の小路が挟まっている。北京極とされる小路は京内最北端の大路・北一条大路からみれば2本目の小路で、今回の交差点跡は3本目の小路にあたるのだ。

このため交差点跡のさらに北120メートルで大路跡が出ると、京内と同じ形の街が北の外れにも存在したことになり、大長岡京説により近づくことになる。

異なる見方もある。龍谷大の國下多美樹教授(日本古代都城史)は都の南東部が桂川と重なり、左京域が度々の水害に見舞われるなどして住みにくくなったため、不足した宅地を北部で補う「補塡(ほてん)説」を掲げる。

今回の調査で出土した道路側溝は型崩れがなく、使用感もあまり感じられなかった。廃都直前に設けられ、廃都と同時に埋められたとみられ、確かに補塡説を裏付けているようにも思える。

天皇の遊園空間か

ただ、浮上する大長岡京説を真っ向から否定する意見もある。長岡京研究の第一人者で三重大の山中章名誉教授は「歴史の流れで北闕型の平城、平安両京の間に位置する長岡京が、藤原京のような中央宮闕型であるはずがない」と訴える。

その根拠は平成7年、長岡宮北端の外れの阪急東向日駅近くから出土した、長岡京期の池状遺構と池につながる水路跡、掘っ立て柱の建物跡などだ。天皇の食する野菜・果樹を栽培した施設の可能性が高いという。

また長岡宮の北端から北約600メートルの物集女(もずめ)車塚古墳周辺で出土した墳丘を利用した饗宴(きょうえん)施設跡や、桓武天皇がたびたびタカ狩りを行ったとの記述もあることから、「天皇の遊猟の地は京の北西部・大原野しかなく、北の外れ一帯は天皇の遊宴空間の『北苑』だったのでは」との見方だ。

これは中国・長安城に倣ったもので、平安京の北の外れに広がる紫野や北野といった地域に受け継がれているのだという。

今回の調査では京内であまり見られない二重の堀のような遺構もあり、囲まれた中にどのような施設があったのかは明らかになっていない。

山中名誉教授は「これまでの調査で長岡京の北の外れに同時期の遺構が広がることが分かってきた以上、京の北の外れ一帯も長岡京跡として調査できる環境をつくるべきだ」と話した。(園田和洋)

この記事の関連ニュース