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謎多き京都を取り囲んだ豊臣秀吉の「御土居」 出土品の有無から徳川幕府の再開発説も浮上

産経ニュース 2024年7月20日 8時0分

天下をほぼ手中にした豊臣秀吉が天正19(1591)年、京都を取り囲むように整備した御土居(おどい)。着工からわずか2~4カ月で全長22・5キロメートルの土塁と堀を完成させるが、造られた堀は場所によってさまざまな表情を見せる。一方で設置目的は町を外敵や水害から守るほか、市域の確定など諸説あり、よく分かっていないのが実情だ。そこで発掘調査取材歴35年の記者が近年の発掘調査を基に探っていると、意外な盲点に気づかされるのだった。その盲点とは-。

底はデコボコだらけ

昨年暮れから京都市中央卸売市場(京都市下京区)で行われた調査では、堀の底をかまぼこ型に連ねて掘った凹凸状遺構が出土した。「障子堀」と呼ばれるもので、小田原・北条氏の山中城や豊臣時代の大坂城・三の丸の堀でも見られる形状という。

底を細かく区切って敵の侵攻を妨害する。しかも水に浸された表面は粘土で滑りやすい。調査した京都市埋蔵文化財研究所の南孝雄調査課長は「外敵の侵入を防ぐため意図的に設けられている」との見方だ。

現場が京都に出入りする京の七口の一つ、丹波口に近いことが御土居の性格をひもとく一つのヒントになるだろう。丹波口は山陰道につながる京の西の玄関口。東西に走る道路に対して、すんなりと通れないように出入り口を南北を向けた「くい違い虎口(こぐち)」を採用しているのだ。

大軍が七条大路から京に向かって進めば土塁と堀に行く手を遮られる。しかも堀の底がデコボコであるために渡るのも至難の業で、渋滞しているところで御土居内からの攻撃を受ける。

南氏は「くい違い虎口と障子堀の存在が、七条大路が当時の京都にとってどれだけ重要なルートだったかを教えている」として、ほかの七口での今後の調査に期待を寄せる。

水田状の底

続いて今年、京都市南区の九条油小路で出土した御土居の堀を紹介したい。

幅約20メートル、深1・2~1・4メートル。底の形状は過去の調査を合わせると、かまぼこ型の中央市場とは異なる。一辺6~8メートル、深さ0・1~3メートルと浅い方形区画が水田のように並んだ、のどかな光景になっている。

こちらも帯水した跡が出ているが、底は砂と小石の砂礫(されき)層。「これでは水が抜ける」とも思ったが、地下水が地上に出るスレスレまで掘り、大雨か洪水の発生で堀にしばし帯水する間に土がたまるシステムになっているという。

そういえば調査地と同じ敷地に約2年前の建物解体でできた巨大なくぼ地がある。最近の雨で水たまりができ、これが堀の姿をほうふつとさせる。

調査した市文化財保護課の奥井智子主任は「凹みがすべて防御機能を持つとは考えにくい。水田状遺構は有力社寺や大名から作業員を大動員し、短期間で完成するためにつけられた作業単位ではないか」と推測する。

土器が出ていない

ところが、取材を進めていくうちに意外な盲点を指摘された。

話を聞いたのは、京都女子大と大谷大で非常勤講師を務め、御土居に詳しい中村武生氏。堀の底から時代を示す土器が出ていないとして、「いろんな表情をみせる底は、すべて豊臣時代のものなのだろうか」と疑問を呈したのだ。

御土居の堀から出土した遺物で承応3(1654)年といった年号入りの札類は、堀の公的な管理がなくなって埋まり始めた土から出てきており、「それまでは幕府が管理していた証拠。その時期に底を削平してもおかしくない」(中村氏)というのだ。

これに対して城郭史に詳しい滋賀県立大の中井均名誉教授は「障子堀は大坂城の堀との共通点も多い。平和な徳川期と違って戦国期の名残の強い豊臣時代とみるべきだ」とする。一方で、九条油小路の堀の水田状遺構は「十字状に仕切ってしまうと作業がやりにくい。作業単位とするには無理がある。徳川期の水田か、洪水で壁面が崩れた障子堀の可能性もある」(中井氏)。

現場に詳しい市埋文研の南氏は「徳川期に底が削平されたとすれば、豊臣期の遺構も一緒に削られたとみるべきで、残された遺構だけですべてが豊臣期に作られたと証明するのは難しい。土砂の堆積状況を細かく調べ、積み上げていくしかない」と調査の困難さを訴えた。(園田和洋)

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