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「蛍大名」京極高次の実像は? 大津市歴史博物館で生涯たどる企画展

産経ニュース 2024年7月29日 18時20分

関ケ原の戦いの東軍勝利を後押しした大津城籠城戦で知られる京極高次(たかつぐ)(1563~1609年)。その生涯をたどる初めての企画展「京極高次」が、大津市歴史博物館で開催されている。女性の縁によって出世したことから「蛍(ほたる)大名」とも揶揄(やゆ)される高次だが、大津城主や小浜城主としての治政を伝える一次史料からは、名門氏族の中興の祖と呼ぶにふさわしい判断力や領民思いの一面を垣間見ることができる。9月1日まで。

大津城籠城戦をテーマにした今村翔吾さんの直木賞受賞作『塞王の楯』をはじめ、高次は歴史小説にしばしば登場するが、その生涯を俯瞰(ふかん)的に扱った研究書や企画展はこれまでなかったという。高次の人生をたどる約130件の史料が展示され、会場は多くの歴史ファンでにぎわっている。

どん底から一転

京極家は室町幕府の有力な守護大名だったが、次第に勢力が衰え、戦国時代になると家臣だった浅井家の庇護(ひご)下に置かれる。会場ではまず、後に織田信長と対立する浅井長政がいた小谷城(滋賀件長浜市)内の、高次が居住したとされる「京極丸」が描かれた「浅井郡小谷山戦場画図」などから当時の状況を解説している。

信長が明智光秀に討たれた本能寺の変(1582年)が起きると、高次は光秀に呼応して長浜城を攻めるが、光秀は豊臣秀吉に討たれる。高次は秀吉の追及を避けるため柴田勝家を頼るが、勝家も賤ケ岳(しずがたけ)の戦いで秀吉に敗れ、ついに流浪の身となった。

同じ頃、高次の妹、龍(たつ)が嫁いでいた若狭国の守護大名、武田元明も光秀に味方したため謀殺された。龍は秀吉の別妻となり、秀吉に高次の助命を嘆願したとされ、そこから高次の人生は一変する。

高次は大溝城(同県高島市)や八幡山城(同県近江八幡市)の城主を経て、1595年には6万石の大津城主にまで出世する。

籠城決意の背景

このように女性の閨閥(けいばつ)に助けられた出世から、女性の尻で光る「蛍大名」と揶揄される高次。その実像が大津城主時代の史料ににじみ出ている。

秀吉や高次に鯉(こい)を献上した大津の尾花川の漁師に対し、高次は感謝の気持ちを伝える。その際、わざわざ「近頃見たこともない見事な鯉であった」と感動している旨を漁師たちに伝えるよう家臣に命じたことが「京極高次黒印状」に記されている。

こうした領民との心のこもった交流の一方、1600年の関ケ原の戦いでは冷静な判断で自ら運命を切り開いた。

9月15日が決戦となった関ケ原の戦いを前に、東軍大将の徳川家康が高次に宛てた2通の書状からは、東軍先遣隊長で彦根藩初代藩主となる井伊直政と行動していた高次の弟、高知(たかとも)を通じて連絡を取り合っていたことがわかる。

展示を担当する五十嵐正也学芸員は、東西どちらが勝っても京極家が残るように、高次には弟とは逆に西軍に味方する選択もあったと推察する。「ところが、東軍先遣隊が8月23日に破竹の勢いで岐阜城を陥落させたことを弟から知り、東軍が勝つとみて大津城に籠城することを決断したと考えられる」と話す。

約3千の軍勢が守る大津城は約1万5千の西軍に囲まれ、高次は、関ケ原の戦い前日の9月14日に降伏。家臣とともに高野山に追放されるが、家康に奮戦をたたえらえ、もっとも早い論功行賞で若狭一国が与えられた。

淀殿からの手紙

こうして京極家は復興を果たし、若狭の国づくりに奔走する高次。その治政についても多くの史料で紹介している。

高次を取り巻く女性たちを紹介するコーナーには、淀殿(亡き秀吉の側室)が若狭国主の高次に宛てた手紙も。高次の大坂下向や、たびたびの手紙に感謝する内容が記されており、気遣いを忘れない誠実な人柄をほうふつとさせる。

五十嵐学芸員は「京極家の中興の祖とたたえられる高次の生涯は、激変する世の中で、名門と呼ばれる人が、どう対応したかを考える上で非常に重要な事例」と話している。

入館料は一般800円▽高校・大学生400円▽小・中学生200円。8月12日を除く月曜日と13日は休館。8月8日は正午まで。問い合わせは博物館(077・521・2100)。

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