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大阪会議から150年 伊藤博文、井上馨‥ 大阪・花外楼の書画が伝える元勲の横顔

産経ニュース 2025年2月4日 10時30分

大阪を代表する料亭のひとつとして歴史を刻んできた花外楼。「加賀伊」の屋号を掲げた幕末のころから木戸孝允や伊藤博文、井上馨ら長州藩(山口県)出身の志士たちが出入りし、明治8年の大阪会議では大久保利通や板垣退助らも一堂に会して国の方向性を話し合う歴史的場面を演出する舞台にもなった。6~8日開催の「ミニ歴史ミュージアム 明治の元勲とその周辺」では、木戸や伊藤、井上らが花外楼に残した書画や手紙が展示される予定で、元勲たちの新たな一面に触れる機会となりそうだ。

<木戸孝允が花外楼の名づけの親としての恩人なら井上馨は花外楼の育ての親としての恩人です>

明治・大正・昭和を生きた花外楼3代目女将の徳光孝(こう)は、著書「花のそと」の中で花外楼の恩人として木戸と井上の名前をあげた。各界からひいきになった理由として、財界で勢力をふるっていた井上と、政界に強い影響力を持った伊藤の存在が大きかったことも記している。

実際、伊藤・井上の人脈に連なろうと政財界の名士たちが花外楼の敷居をまたいだ。後の世に、青年期の松下幸之助が一度は客として訪れたいとあこがれたという花外楼独自の風格は、明治の元勲たちと紡いできた歴史を抜きにしては成り立たないものだったに違いない。

新政府崩壊の危機

今回の展示では、伊藤が大阪会議に至る経緯を記した覚書が出品される。当時の明治政府は、征韓論や台湾出兵などの方針を巡って分裂状態となり、先行きが見通せない状況だった。

そこで伊藤や井上らが仲介役となり、政府の中心人物である大久保と、政府と距離を置く木戸・板垣の対面を実現させた。大阪会議では、国会開設を見据えた体制づくりを進めていくことで合意し、木戸と板垣は政府に復帰している。

覚書には、政府を去って山口にいた木戸のもとに赴こうとする大久保に対し、伊藤が「閣下自ら山口に行くのは政府の威信を損なう」という意味の反対論を述べ、大阪の地で会見するよう段取りをつけたことがうかがえる文面がある。師の吉田松陰から「周旋家」と評された伊藤の調整能力の高さがうかがえる資料だ。

「育ての親」の親心

「育ての親」井上が花外楼に残した布袋の軸も見逃せない一品だ。めったに笑わない堅物として知られた2代目女将の徳光悦に、井上が布袋の笑顔を見習ってほしいとの思いを込め、画の余白に自らの歌を記して贈ったという逸話が残る。

また展示では、木戸が書いた「花外楼」の扁額(へんがく)とともに、伊藤や井上が揮毫(きごう)した書も並ぶ。「かがい」の音をもとに伊藤は「花魁」、井上は「香涯楼」と記していて、それぞれのキャラクターがにじみ出たかのような字の選び方が面白い。他にも花外楼の屋号をモチーフにした扁額が並ぶ予定で、それらを見比べてみるのも一興かもしれない。

政治的立場超えて

薩摩藩(鹿児島県)の家老として大久保や西郷隆盛らとともに藩政を主導し、維新後に若くして大阪で生涯を閉じた小松帯刀(たてわき)の手紙や、無血開城を果たして江戸を戦火から救った幕臣の勝海舟の書など、花外楼には幕末維新ゆかりの人物たちの品々が残され、今日まで伝えられてきた。

大阪歴史博物館の豆谷浩之学芸員は、「政治的立場を問わず、さまざまな人物が花外楼に足跡を残していったことを示す貴重な資料だ。私的な性質のものが大半だが、筆者の人柄がうかがえる興味深いものが多い」と評価する。

今年は、大阪会議から150年という節目の年。花外楼の所蔵品を通して、明治日本の国づくりに奔走した人々に思いをはせたい。(荒木利宏)

子孫が見た大阪会議

大阪会議は、子孫の目にはどう映っているのだろう。

木戸孝允とともに会議の主役を務めた大久保利通。玄孫(やしゃご)の大久保洋子さんは「まさに〝その時〟に必要な場だったのでは」と指摘する。「生と死の境が見えない時代に、その日、その時、その場所に居合わせること自体、すごいことだったと思います」

死線を越えて国家建設に奔走した志士たち。木戸と大久保は大阪会議からわずかのうちに世を去ってしまう。

大阪会議が立憲政体の起点なら、そのゴールは明治22年の大日本帝国憲法公布だろう。いずれも2月11日というのも感慨深い。

憲法制定の牽引(けんいん)役を果たしたのは伊藤博文だ。曽孫で、自然映像プロデューサーの伊藤弥寿彦さんは「実は博文というのは、多岐にわたって非常に多くのことを手がけた人で、その全体像を一言では言い表せません」と苦笑いしながらも、大阪会議の準備に尽力したことについて「調整力や周旋力にたけていたのだと思います。憲法をつくる際も総合プロデューサーのような役割でした」と話す。(新村俊武)

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