江戸時代のはじめ、京都に松永貞徳(ていとく)という俳人がいた。彼は俗語(日常語)を用いる詩が俳句だと定義した。ふだんの言葉で作ってよい俳句は、庶民の間で大流行し、江戸時代を代表する詩になった。つまり、俳句流行の火付けになったのが貞徳だった。
その貞徳、ある家であった集まりを一足早く辞して帰ろうとしたら、家主が柿を盛った籠を持ち出し、センセイ、この柿で一句をどうぞ、詠まないと帰しませんよ、と笑った。
貞徳、すぐに筆をとって「かきくけこくはではいかで」と書いた。「くはではいかで」は食べないではどうして。さて、最後の5音がわかるだろうか。
答えは「たちつてと」。「かきくけこ」のかき、「たちつてと」のたちを活(い)かして、柿を食べないでどうして帰ろうか。食べてからここを立つよ、と即座に詠んだのである。
「かきくけこくはではいかにたちつてと」。柿はこのようなかたちで俳句に登場した。柿は俗語中の俗語だったのだ。
和歌と連歌という俳句以前の詩は、雅語で詠む詩歌であり、俗語を嫌った。俗語の代表は食べ物だが、柿はその食べ物なので和歌、連歌には詠まれなかった。たとえば百人一首には、柿はもちろんのこと、日常の食べ物は詠まれていない。
柿は御所を囲む貴族の邸宅に植えられていた。甘い果物として人気だったが、食べ物であったので詩歌の対象にはならなかった。その柿を俳句は積極的に詠んだ。藁(わら)屋根を背景にした柿、白壁に映える柿などを秋の風景として広めたのは俳句だった。
「柿くえばパウル・クレーと友だちに」「柿くえば奈良が近づく三センチ」はボクの句。(俳人、市立伊丹ミュージアム名誉館長)