貧困や性犯罪被害に苦しむ女性や外国人らを支援する「Oishiサポートセンター」(神戸市北区)の代表を務め、85歳の今も無料で電話相談に応じている。女性の自立支援を中心とした社会貢献活動は実に半世紀に及ぶが、きっかけは自宅で開いていた英語教室に通う外国人だった。
結婚後、中学教員を辞めて間もない昭和40年、神戸市北区の自宅で英語教室を開いた。対象は主に中学生。「だんだん教室に来る子供が増え、繁盛するようになった」というある日、フィリピン人少女からの月謝が滞った。
古いアパートにある少女宅は母子家庭で、母親に詳しい事情を聴いた。「貧しくて食べられず、売春で生活費を稼いでいる」などと話し、管理売春の被害者だったと分かった。生活保護の申請が必要だが、「やり方が分からない」という母親のため、一肌脱いだ。市役所で母親に代わって生活保護の手続きを取った。
「社会にはもっと困っている女性がいる。そんな人たちの助けになりたい」。以降、人身売買被害の外国人や性犯罪被害の女性らの支援に乗り出した。いつしか個人的な活動を「Oishiサポートセンター」と呼ぶようになった。
フィリピンやタイなどアジア出身女性が「日本でダンサーをすれば稼げる」との甘言をうのみにして来日し、売春を強要されるケースが相次いでいた時代。「ジャパゆきさん」という流行語も生まれたほどだった。
その実態に迫ろうと、平成8年、フィリピンの女性自立支援プログラムに参加。現地の女性が売春に頼らず生活できるよう少額融資ローンの設立に貢献した。10年にはタイの村を訪れ、貧困で教育を受けられなかった人のため、「生き直し学校」の建設も支援した。
「現地の女性は食べることすら困るほど家庭が貧しかった。学校で教育を受けることができないまま、すぐに結婚させられるような状態だった」。何とか助けてあげたいといういちずな思いが、活動の幅を世界にまで広げた。
貧困から日本で犯罪に手を染める外国人女性らの社会復帰の手助けになればと、12年に犯罪者の更生を支援する保護司に委嘱された。自宅で電話相談を受け付ける窓口「Oishiサポートセンター」も正式に立ち上げた。
16年には、国連アジア極東犯罪防止研修所の協力メンバーとして、フィリピン・モンテンルパ近郊の刑務所で、女性の性被害をテーマに講演。少年院も視察した。「貧しさゆえに犯罪に手を染めた少女たちが、『金をくれ』とせびってくる。かわいそうな状況だった」と振り返る。
支援した子供たちが「ユキばあちゃん、ありがとう」と投書したことがきっかけで、2年後にニューズウィークの「世界が尊敬する日本人100人」にも選出された。「自分の活動が報われ、本当にうれしかったですよ」と目を細めた。
社会貢献の道、左脚の障害が原点
社会貢献の原点は、幼い頃から抱える左脚の障害にある。まだ6歳だった終戦間際の昭和20年、当時住んでいた東京から母の実家がある愛知県豊橋市に疎開中、縄跳びをしていた際に転倒した。左脚太ももの骨が折れて骨髄炎まで発症し、左脚を切断せざるを得ないほどの重傷だった。
戦火が激しさを増して物資も少ない中、手術を手掛ける病院はなかなか見つからなかった。「孫の脚を切断するのは何とか避けたい」という祖父が懸命につてをたどり、何とか旧陸軍の病院で手術できることになった。
繰り返し受けた手術は10回ほど。執刀医らの懸命の治療で何とか左脚を切断する事態は避けることができたが、左脚の自由はきかなかった。家の中で過ごす時間が増え、母の勧めもあって日本画を習い始めた。
学校で体育の授業があってもグラウンドの隅での見学を余儀なくされた。「周りと同じことが自分だけできない。子供時代はやっぱり悩みますよね」。それでも他の子と同じように両足はある。執刀医への感謝の思いは日に日に募っていった。
豊橋の名門・県立時習館高に進学後、参加した校内の弁論大会が人生のターニングポイントになった。「自分は左脚に障害を負っているけども、執刀医のおかげで切断せずに済んだ」「世の中には他に苦しんでいる人がいる。自分もそんな人たちを助けて世の中に役立ちたい」。壇上から大勢の生徒に自ら語ることで、社会貢献の道を意識するようになった。
父親は出征して戦死しており、進路に口出しをするのは母方の親戚が中心だった。「高校を出たら早く嫁に行け」という声が多かったが、英語を勉強したいと岐阜大文学部(当時)の英文学科に進学した。勉強に励む中でも、執刀医に「直接お礼が言いたい」と自力で探した。しかし、すでに終戦で旧陸軍は解体され、執刀医を見つけることはできなかった。
「先生に直接お礼を言えない代わりに、社会貢献をしよう」と意識はするものの、当時は昭和30年代半ば。大卒の女性が社会に出ても選択肢は限られていた。一度就職した事務職では「お茶くみばかり」の日々に嫌気がさし、すぐに英語教員の試験を受け直した。
岐阜の中学などで教員生活を数年続けたが、いつも親戚から聞こえてくるのは結婚話。「親戚の声から早く逃れたい」一心で、神戸にいた「穏やかなタイプ」の叔父に紹介された夫と結婚した。
子供が生まれて間もなく、英語教室を始めた。「共働きなんて少ない時代。『何でそんなことを』と嫌な目で見られた」こともあったが、自分の信じる道を進んだ。その後、女性の自立支援を中心とした社会貢献に踏み出すことにも躊躇(ちゅうちょ)はなかった。
こうした持ち前の行動力、エネルギッシュさは、日本画家としての活動にも及ぶ。世界有数の規模を誇るスペイン・プラド美術館に作品を出展。フランス芸術家協会が主催する世界最古の公募展「ル・サロン」では2010年から3年連続で「入選」した。「脚に障害を負って始めた日本画が、まさかここまでになるとは」
電話相談まだまだ続けたい
人身売買や性犯罪などの被害に遭った女性や外国人らの自立支援を続けた末、不登校やいじめなど子供らの悩みにも応じようと、平成12年に立ち上げたのが、電話相談窓口「Oishiサポートセンター」だ。開設当初は自宅の離れで英語教室も経営していたが、寄せられた相談の電話は千件以上。活動費は「英語教室での収益を充て、全て自分持ちだった」と明かす。
「売春で妊娠した」「親に性的虐待を受けている」。性被害を受けた女性や子供からそうした相談が寄せられれば内容を親身になって聞き取り、外国人からの相談には得意の英語を生かして対応する。「被害者の心のケアと援助が何よりも大切」とあって、解決の糸口が見つかれば各関係機関へとつないできた。
電話相談と並行して続けてきたのが、犯罪者の社会復帰を手助けする保護司としての活動だ。性犯罪者を中心に、出所して保護観察中の人たちと月2回の面談を重ねた。総じて感じたのは「本心から申し訳ないと思って(面談に)来る人は少ない」ということだ。
面談した相手に「あんた、頑張るんやで」と励ましの声をかけても、「うん」の一言のみ。「ありがとう」という感謝の言葉もない。フィリピン人らを管理売春した罪で服役した女性は、再び管理売春に手を染めた。「正直、自分が情けなくなることもあった」と無力感も残る。
それでも、15年ほど保護司の活動を続け、近畿地方保護司連盟会長表彰を2度受賞するなど実績を重ねた。「保護司を続けたのは、社会のために尽くしたいという思いが全て。いい勉強になった」と話す。
さらに、法廷通訳人という肩書も持つ。刑事裁判で外国人の被告が話す言葉を即座に訳するのが職務だ。保護司では性犯罪関連を多く扱ったが、法廷通訳では「金銭トラブルのような話が多かった。保護司と違った事件を扱えたので、すごく面白かった」と振り返る。
貧困や性犯罪被害に苦しむ女性や子供のため、フィリピンやタイにまで活動を広げた社会貢献活動が評価され、平成27年には安倍晋三元首相の妻、昭恵さんが会長を務める公益財団法人「社会貢献支援財団」(東京)から社会貢献者表彰を受賞。その後も東久邇宮国際文化褒賞(平成29年)や産経市民の社会福祉賞(30年)、ペスタロッチー教育賞(令和元年)、作田明賞(3年)など数多くの受賞歴を誇る。
すでに85歳。保護司や法廷通訳人などの活動は8年前に退いた。幼い頃から左脚が障害で不自由な上に、最近は耳も聞こえにくくなってきた。それでも自宅で電話相談を受け付ける活動だけは続けている。教員から性被害を受けたという女子生徒の相談を受けたこともあり、最近は教員による性犯罪が多発していることを憂慮している。
「人生いろいろやりきったと思うかって? まだまだ足りない。あと5年、90歳までは元気に動けるはず。これからも自分がしたいと思うことをやっていきたい」
今年9月からは、ラオスから留学に来た若い女性を自宅にホームステイさせ、面倒を見ている。「引退」の2文字が頭をよぎるのはまだ先のようだ。(宮本尚明)
おおいし・ゆきこ 昭和14年、愛知県生まれ。結婚を機に神戸市に移り住む。英語教員だった経験を生かし、40年に自宅で英語教室を開設。教室の運営と並行して女性や子供からの相談、自立支援などを手掛け、平成12年には専用の電話相談窓口「Oishiサポートセンター」(078・581・0644)を自宅に開設した。年中無休で英語対応も可能。