兵庫県宝塚市内に江戸時代、宿場町「小浜宿」として栄えた地域がある。京都・伏見から加茂を経て入ってくる「京伏見街道」、西宮から酒や米を運んだ「西宮街道」、有馬に至る湯治の道だった「有馬街道」の3街道が交わる交通の要衝「小浜」は、当時のたたずまいを今に残し、宝塚の歴史の一端に触れることができる。
江戸の交通要衝
小浜を散策するにあたり、まず訪れたいのが「市立小浜宿資料館」(入館無料)=写真・図①。戦国時代から安土桃山時代の武将、山中鹿之介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)を祖先とし、小浜地域で代々医業をしていた山中家の跡地に、平成6年9月に開館した。小浜の歴史や大工道具、制札(せいさつ)など、貴重な史料類を展示・紹介している。
また、同館には地元在住の常勤スタッフがおり、展示品や小浜地域についてわかりやすく丁寧に案内してくれる。取材した日、記者は同スタッフの小島淳子さんに館内を案内してもらい、説明を受けた。
館内に入り、目に飛び込んできたのが、小浜地域が宿場町として栄えていた江戸時代の町並みを模型で再現した大きなジオラマだ。小島さんは「これから散策に行かれる方にスムーズに小浜を楽しんでもらうため、まず最初にこのジオラマを使い、小浜に点在する観光スポットの位置などをわかりやすく説明することが多い」という。
このジオラマのおかげで小浜が有馬街道、西宮街道、京伏見街道の3街道が交わる宿場町だったことが視覚的に確認できた。
また、ジオラマは自然地形も立体的に再現しているので、「小浜が周辺の川や谷などの自然をうまく利用して築かれた」という説明もよくわかった。
ジオラマを使った説明を受けた後、常設展示室へ。ここでは小浜が宿場町として栄えたことを示す貴重な展示品の数々が並べられている。
正徳元(1711)年の制札「御朱印伝馬札」などは、江戸幕府が抜け荷の禁止や駄賃を定めたもので、小浜が幕府から交通の要衝として重視されたことがうかがえる。
館内には小浜出身の力士で名大関の谷風岩五郎が、明治5(1872)年に故郷に錦を飾り、小浜皇大(こうたい)神社の境内で開催された相撲巡業の番付板も展示されている。
一方、同館の敷地内には「玉の井戸」がある。豊臣秀吉が有馬湯治で近くに泊まった際、この井戸からくんだ水で、千利休が茶をたてたといわれている。
館内では小浜の歴史や見どころを紹介するビデオ上映も。小島さんは「地元でも小浜のことを知らない方が多いと思う。ぜひ来てほしい」と呼びかけている。
いくつもの面影
同館を出発し、次に向かったのが隣接する浄土真宗本願寺派の寺院で〝小浜御坊〟とも称された「毫摂寺(ごうしょうじ)」=同②。明応(めいおう)年間(15世紀末)に建立され、小浜はその寺内町として発展した。四方を壁に囲まれたその境内は広く、大きく立派な本堂は圧巻だった。
毫摂寺から西へ少し歩くと細い下り坂となり、途中の高台に静かにたたずんでいるのが「首地蔵」だ=同③。大きな頭部が2体並ぶ異様な風景だったが、地元では首から上の病気に御利益があるとして知られており、最近では「頭が良くなる」とされ、受験生のお参りも増えているという。高台の下には谷風岩五郎の墓もある=同④。
そこから北へと歩を進めると、小浜皇大神社の立派な大鳥居が姿を現す=同⑤。創建は嘉吉元(1441)年と伝わる天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神とする神社で、本殿は県登録文化財に指定されている。
小浜皇大神社から東に向かう通りには代官所跡や旅籠(はたご)跡などのほか、いくつもの行燈(あんどん)があり、宿場町としの面影を今に残している。
この通りには「菊仁」という造り酒屋で、阪神大震災から倒壊を逃れた江戸時代の貴重な建物があり、かつて小浜では酒造りも盛んだったこともしのばせる=同⑥。
最後に小浜の北に位置し、江戸時代の民家を今に伝える貴重な歴史遺産として無料開放されている「旧和田家住宅」を訪れた=同⑦。「摂津・丹波型」と呼ばれる妻入角屋本瓦葺の住宅で、市内最古の民家遺構の一つとされている。ここにも常勤スタッフがいて、建物の間取りと特色を説明してくれる。
15世紀末には毫摂寺の寺内町として栄え、江戸時代になってからは京伏見街道、西宮街道、有馬街道が交わる宿場町「小浜宿」としてにぎわい、現在もその面影を残す小浜。そんな地で歴史とのふれあいを楽しんでみてはいかがだろうか。(香西広豊)