昭和45年の日本万国博覧会(大阪府吹田市)を当て込んだリゾートホテルを建設中に放置され、平成4年にダイナマイトで爆破解体された琵琶湖岸の廃虚ビル(大津市)。地元住民からは「幽霊ビル」「ドルゲマンション」などと呼ばれ、23年もの間、高度成長期の負の遺産・象徴とされていた。爆破後もがれき処理が難航し、さらに約10年間野ざらしに。ただ、長年人の手が入らなかったために跡地は今、やすらぎをもたらすビオトープになっている。
10秒で崩壊
記者になって4年目に入った頃だった。
「3、2、1、ファイア」
平成4年5月22日午後1時ちょうど。合図とともに爆破が始まり、高さ約36メートルの11階建てビルが砂煙をあげて10秒ほどで崩壊した。その一瞬をビデオやフィルムに収めようと約4万1千人の見物人が押し寄せた。
湖上にも見物人を乗せた船が浮かび、上空には報道各社のヘリコプターが飛び交い、日ごろの静かな湖畔は熱気に包まれた。
業者は、爆破解体はインプロージョン(内側に沈み込むように倒す)方式と説明していたが、琵琶湖側に倒れ、ビルの一部も残った。
「成功か? 失敗か?」
夕刊の締め切り間際で、殺気立って聞いてくる上司に「現場責任者は『成功』といってます。成功です」と叫んだのを覚えている。
見なれた風景
リゾートホテルは昭和43年、鹿児島市の観光開発会社が着工した。しかし、資金繰りや妨害、地元調整の難航などで工事が中断。その後、所有権が転々とし、建築継続も解体もなく、野ざらしのままとなった。
コンクリートむき出しの不気味な姿に、「人が死んでいた」「幽霊が出た」などといった無責任な噂も加わり、「幽霊ビル」と呼ばれたが、いつしか地元の見なれた風景に落ち着いた。
記者の中学の同級生で当時、ビルの近くに住んでいた東京都清瀬市の会社員、日出幸(ひでこう)和宏さん(60)は「小学生のころ、昼間だったが肝試しに幽霊ビルに入って遊んだ。内部はコンクリート打ちっぱなしで、夜は怖くて近寄れなかった」といい、「外観は恐ろしさもあったが、何年もたち、見なれたのもあって、いつの間にか湖岸の風景になっていた」と振り返る。
貴重な自然
62年に廃虚ビルと敷地を購入した業者は、爆破解体後、ヘリポートを備えた一大リゾート基地を建設すると説明していた。
ところが爆破後、がれきの撤去作業が途中でストップ。がれきは放置され、リゾート計画も立ち消えになった。
転機を迎えたのは平成13年7月。皮肉なことに、廃虚ビルの存在で長年、開発や人の出入りがなかったため、付近は自然湖岸の少ない南湖(琵琶湖大橋以南の琵琶湖)では生物多様性に富んだ貴重な地区だと評価された。滋賀県が土地の一部を購入、残りの跡地には大手化学メーカー、カネカの太陽光発電所を建てた。
現在、廃虚ビル跡地を含む一帯約4ヘクタールは「木の岡ビオトープ」となり、定期的に自然観察会が開催されている。今月8日にも水鳥の観察会が開かれ、地元住民ら30人が参加した。
同ビオトープの保全と利活用に取り組む団体「おにぐるみの学校」の小林圭介・滋賀県立大名誉教授は「結果的に『幽霊ビル』が貴重な自然環境を今に残したことになる」と感慨深げに話していた。(野瀬吉信)