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大阪を代表するターミナル 発展続ける梅田の出発点の今昔物語 昭和100年だヨ! 全品集合 阪急梅田駅編

産経ニュース 2024年11月25日 10時30分

阪急電車といえば、やはり『梅田駅』(現大阪梅田駅)が出発点だ。明治43年の創業時は「単線片側ホーム」の小さな駅だったが、今では「9線10面ホーム」の巨大ターミナル。その成長の軌跡を現在、西宮北口駅統括駅長を務める柴幸雄さん(59)=昭和58年入社=と同駅駅長の松本直之さん(55)=63年入社=と一緒にたどってみよう。さて、どんな《旅》になるか―。

昭和48年に完成

懐かしい「梅田駅」への旅をお願いしたのは、2人とも入社1年目の配属先が同駅だったから。ところが2人は困った表情だ。

「私も松本も入社した時にはすでに梅田駅は大きくなっていましたからね。それ以前のことは…」(柴さん)。それもそうだ。

梅田駅が現在のような巨大ターミナルになったのは昭和48年のこと。30年代、経済成長を背景に阪急沿線の住宅開発が進み、一気に利用客は増えた。35年の調査では梅田駅の1日の乗降客は約44万人。40年には約60万人に達する。

電車の本数を増やし、連結車両数を増やすには駅そのものを拡張しなければならない。そこで「梅田駅移設拡張計画」が立てられ、41年から第1期工事が始まった。

単に駅の拡張工事ではなかった。阪急では「複合的な梅田地区開発事業」と位置づけ、総力を挙げて取り組んだ。

①広大な駅の下に広がりのある地下店舗街を作る

②駅に直結した高層のオフィスビルを建設する

③駅は3層。3階に宝塚、神戸、京都それぞれ3線の9線10面ホームにする

④2階にエスカレーターを設置し、地下鉄御堂筋線への導線を確保する

⑤駅が遠くなったため1階に乗降客の利便性を高めよう―と、エスカレーターと「動く歩道」を日本で初めて実用化する―など。

こうして48年11月23日、「新梅田駅」が完成した。

「ここから私たちの登場ですね」と柴さん。2人が入社した50年代後半から60年代の梅田駅は集改札の自動化が一気に進んでいる時期だ。

阪急で自動改札機が導入されたのは42年3月1日。千里線の南千里―北千里間を延伸開業した際、新設の北千里駅に10台が設置された。梅田駅はもっとあと。なぜだろう。

「北千里駅は当時、千里ニュータウンがオープンしましたし、1970(昭和45)年に大阪万博がありましたからね」と柴さん。そして「1日に60万人以上も乗降客がある梅田駅でもしトラブルが起こったら大変なことになりますから、いろんな駅でテストし、『よし、大丈夫!』となって梅田駅に設置したんですよ」。なるほど。

現在の大阪梅田駅には3階に41台、2階中央口に31台、茶屋町口に12台と計84台の自動改札機がある。

有名な話だが、阪急の切符や定期券は「園田」(神戸線)や「池田」(宝塚線)、「富田」(京都線)、「吹田」や「山田」(千里線)の「田」はそのまま普通の「田」と表記されているが、「梅田」は口の中が「×」の「田」になっていた。指で定期券の「山」や「園」の字を隠して「梅田駅」でキセルするのを防止するなどの狙いがあったという。

――自動化が進むと仕事が楽になったんじゃないですか?

松本さん「人が余ったような状態になりました」

柴さん「その余った若手は《検札班》に回されるんです。例えば神戸線の特急に乗って、切符を拝見いたしますと」

――それはキセルや無賃乗車している人を捕まえるため?

柴さん「いえ、違います。入社したとき教習所で全員が《検札とは不正を暴くのが目的ではない。お客さまに正しい乗車をうながすためのもの》と教わっているんです」

けっして不正を暴くものではない! 「阪急スピリッツ」が少し分かったような気がした。

「三番街」由来は諸説

梅田駅の拡張計画の中で「地下に広大な店舗街」とあるのが、昭和44年11月30日にオープンした『阪急三番街』。

広報部課長の西浦一晴さん(45)に「三番街の歌知ってる?」と尋ねると、「♪have a nice day~」と歌い出した。違いますよ。「♪こんにちは こんにちは こちらは阪急三番街~」と歌うと不思議そうに首を傾けた。

44年は筆者、まだ13歳。両親に連れられて梅田に来ていた。水の都・大阪にちなみ世界で初めての「川が流れる街」は不思議な空間だった。「トレビの広場」では、「願い事がかなうから」と言われ、なぜか後ろ向きになってお金を投げ入れた。

なぜ、「三番街」になったのか―には諸説あり。ニューヨークの有名な「五番街」をまねた説。神戸、宝塚、京都の3線が集結する「梅田駅」だから「三」とつけた説。そして所在地が「小深町3番地」だったから説。あなたはどの説がお好きかな?(田所龍一)

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