愛知県北東部に位置する「奥三河」の山間部を走っていた豊橋鉄道田口線。昭和43年に廃止されて半世紀以上経過するが、現在もトンネル、橋脚、ホーム跡などの遺構が多く残っている。その中で人気のスポットとなっているのが三河大草駅跡(愛知県新城市)だ。トンネルをくぐって木立に囲まれると、おとぎ話や昔話の世界に迷い込んだ錯覚に襲われる。
100年超える思い
JR飯田線の本長篠駅から県道32号を3キロほど北上したところにある豊鉄バスの上大草停留所。西側に広がる集落に入り、緩い坂道を上がっていくと築堤が見える。これが田口線の線路が通っていた場所だ。築堤を左へ線路の跡をたどり、トンネルをくぐると三河大草駅跡が現れる。
片面ホーム1面1線の無人駅。駅名標や待合室は撤去されている。周囲から聞こえる音もなく、雰囲気は秘境駅だ。森の中、ひび割れた部分がある石積みのホームはコケむし、枯れ木で覆われている。田口線の始発だった本長篠駅の次の駅で、路線の開通から1年遅れで開業した。集落からは少し離れた場所にあり、利用者は少なかったという。
くぐってきたトンネルは明かりはなく、ぬかるんで足場が悪い中、スマートフォンの明かりを頼りに歩くと、ごつごつとした手掘りの壁面が映し出された。およそ100年前、奥三河の山中に鉄道を通した強い思いが伝わってくる。
木製車両を展示保存
路線の中心駅のひとつだった鳳来寺駅は紅葉の名所でもある鳳来寺の最寄りの駅で駅舎は2階建てだった。国鉄からの臨時列車が乗り入れたこともあり、利用者で大いににぎわった。現在、跡地はバス停や駐車場になっている。
清崎駅があった場所の近く、国道257号沿いに令和3年5月、オープンした「道の駅したら」(同県設楽町)には、同線を走っていた電車が保存されている。「モハ14」という木製車両で、大正14(1925)年に製造された。JR飯田線の前身にあたる豊川鉄道で走り、後に田口鉄道に活躍の場を移し、廃線となるまで使用された。車内にも立ち入ることができ、内部は写真パネル、行き先表示板、キップを入れた棚などを展示。シンプルな作りの運転台はレトロな感じだ。
保存は屋根付きの場所で状態は良好。もともとは町内の別の場所に展示されていたが、道の駅のオープンに合わせて移ってきた。田口線の歴史を語るシンボルとして親しまれるだろう。(鮫島敬三)
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奥三河の産業と生活支えた田口線
田口線の前身にあたる田口鉄道が開通したのは昭和4(1929)年。建設のきっかけは明治、大正までに、現在のJR飯田線のルートで東海道線の豊橋から豊川鉄道、鳳来寺鉄道が延伸してきたことで、近隣の田口町(現設楽町)では鉄道を望む声が上がった。近くの段戸山付近の山林が皇室が所有する御料林だったことから、その木材を運ぶためを名目に、宮内省(当時)にも鉄道敷設が働きかけられたという。
これらの運動が実り、4年5月に鳳来寺口駅(現JR飯田線本長篠駅)-三河海老駅間の11・6キロで田口鉄道が営業を開始。7年12月には三河田口駅まで延伸され、22・6キロが全通した。開通効果で木材の搬出はもとより、地元の住民の通勤・通学、沿線にある鳳来寺などへの観光客の利便性向上に大きく寄与した。
しかし、20年代中ごろをピークに、自動車の普及と過疎化で利用客は減少。31年には名古屋鉄道系列の豊橋鉄道に併合された。その後も経営不振からの脱却はならず、40年には台風24号による水害で清崎駅-三河田口駅間が不通(翌年から休止)。そして、43年8月末の「さよなら列車」の運行を最後に廃止された。
「時刻表復刻版1967年10月号」(JTBパブリッシング刊)で豊橋鉄道田口線のページを開くと、台風被害を受けた後のため、三河田口駅に列車は通っておらず、下りは清崎駅行き、上りは同駅発。廃止直前の列車の行き先表示板は「清崎」となっている。