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足で描き続けた少年の日の「赤」 伝説の画家 白髪一雄が描いた世界 アマ物語

産経ニュース 2024年8月20日 10時30分

天井からつるされたロープにつかまり足で描く-。〝フットペインティング〟で世界的に有名な画家・白髪一雄(1924~2008年)も尼崎が生んだ巨匠である。「尼崎は一度住むと離れたくないと思わせるまちです」と生前、よく語っていたという。貴布禰(きぶね)神社(同市西本町)のだんじり祭りが大好き。心躍らせた少年期、その目の前で起こった衝撃の事件…。ことし生誕100年を迎えた白髪氏の作品の中には、しっかりと「尼崎」が生きている。

だんじり好き

白髪が「足」で描くようになったのは昭和29年、ちょうど30歳のころだ。

大阪市立美術研究所に入所し油絵を始めた白髪氏は多くの画家たちの影響を受けた。

「誰も描いたことのない絵を描きたい」

そのために2つのことを目指したという。

①構図のない絵

画面から具体的な形を消した。絵筆を捨てペインティングナイフを使う。違う-。では指で-。まだ何かが足りない。そして足へとたどり着いた。

②色の感覚のない絵

白髪は「赤一色」で描いた。その「赤」は「クリムゾン・レーキ」という一番古い〝いにしえの赤〟と呼ばれ、血のように深い。

これが白髪の原点。クリムゾン・レーキが白髪作品の代表的な色となった。

でもなぜ、この色なのだろう-。あまがさき観光局の松長昌男ディレクターがこう解説した。

「その赤はまさしく〝血の色〟なんです。白髪先生は幼いころから地元のお祭り、貴布禰神社の〝だんじり〟が大好きで毎年、見に行っておられた。そのお祭りに自分をかわいがってくれている近所のお兄ちゃんが参加していたんです。ところが…」

貴布禰神社のだんじりは、岸和田のような走りの華麗さを競うのではなく、上にのしかかった方が勝ち-という山車のぶつかり合い。なんと、白髪少年の目の前でそのお兄ちゃんが、ぶつかり合っただんじりに挟まって亡くなった。

「先生の記憶では頭から血しぶきが飛び、辺り一面が真っ赤になったという」

松長さんはある日、アトリエを訪ねた。すると白髪がうれしそうに「松長君、おもしろいものが見つかったよ」と古いスケッチブックを手渡した。

そこには少年のころに、サインペンで描いた貴布禰神社のだんじり祭りのスケッチが-。しばらく見ていると「どの絵が好きだい?」と聞かれた。「これですかね」と答えると、ビリビリと破いて「じゃぁ、これは君にあげるよ」。

「びっくりしましたよ。おそれ多くて…。でも、いりませんとはいえないし、ありがたくもらって帰りました」と松長さん。それが、この写真のスケッチである。

希代の抽象画家、心優しき素顔

「足で描き始めたころは絵画関係者やマスコミからも〝奇人変人〟扱いされたそうです。でも、それは人と違う絵を描きたい-と求めただけで、白髪先生は分け隔てをしないとても優しい先生でした」

尼崎市の広報を務めていた20代のころから親交のあったあまがさき観光局の松長昌男ディレクターは懐かしそうに話した。

平成13年、兵庫県立近代美術館の移転前〝最後の企画展〟として「白髪一雄展」が行われた。ある日、会場で一緒に座っているとたくさんの来場者からサインを求められた。「はい、はい」と笑顔でサインする。ある女子大生が「先生、この紙に穴をあけてください」という。すると白髪氏は-。

「君、おもしろいこという子やなぁ」と笑いながら、持っていたペンでプスプスと穴をあけ始めた。

「驚きました。楽しそうな顔をして穴をあけているんですから。先生は本当に優しいんですよ」

そんな松長さんの〝宝物〟は富士子夫人からもらった白髪の形見の「老眼鏡」だという。

妻と二人三脚で制作

十畳の部屋の中央の梁(はり)からロープが下がっている。床にはキャンバスが固定され、部屋の隅には膨大な量の絵の具。

白髪がロープにつかまると富士子夫人が底をハサミで切った絵の具を手渡す。白髪は画面に投げつけ、素早く素足を乗せて絵の具を引き延ばす。すると間髪を入れずに富士子夫人が次の絵の具を手渡す。

2人の間に言葉はない。無心に渡し無心に足を動かす。飛び散る絵の具、室内が熱気を帯び、白髪の呼吸も荒くなる。

「何かにとりつかれたようで、神がかった儀式のように思われた」と何必館(かひつかん)・京都現代美術館長の梶川芳友氏は本紙夕刊のコラムでこう語っている。

あまがさき観光局の松長昌男ディレクターも「白髪先生の作品は一人ではできない。奥さまの富士子さんとの二人三脚の作品なんです」という。

富士子夫人も画家である。京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大)在学中に白髪氏とお見合い結婚。当初は2人そろって「具体美術協会」に参加していた。だが、いつしか富士子夫人はロープをつかみ足で描く夫のもう一つの「目」になり「手」になっていった。(田所龍一)

しらが・かずお 大正13年8月12日、尼崎市西本町に生まれる。生家は呉服商。尼崎中学(現・兵庫県立尼崎高校)から京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大)に進み日本画を学ぶ。卒業後は大阪市立美術研究所で油絵を学ぶ。昭和29年ごろから「足」で描くようになり、金山明氏とともに前衛的な美術集団「0(ゼロ)会」を結成。その後「具体美術協会」に合流した。32年に「アンフォルメル」(形のない美術)の提唱者ミシェル・タピエ氏の評価を受け、「具体」のメンバーとともに国際舞台で活躍する画家となる。平成20年4月8日、83歳で死去。

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