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村山実と江夏豊 2人の虎エース生んだ運命のまち 球史に残るあの場面も尼崎にゆかり アマ物語

産経ニュース 2024年8月23日 10時30分

「ええっ、知らんかったの!」と怒らないでいただきたい。実はあの阪神タイガースの大エース、村山実(故人)と江夏豊氏が「尼崎」出身だったことを、長年、トラ番記者をしていながら知らなかったのです。情けなや…。村山氏は尼崎市内にあった住友工業高出身。江夏氏は市立園田中出身。そしてもうひとつ、2人に共通しているのが、この尼崎で自分たちの将来を決定づける恩師と出会っているのである。両エースの尼崎ヒストリーをみてみよう。

母校跡に銅像

尼崎市東難波町にある兵庫県立尼崎総合医療センター。玄関前に、力強くザトペック投法で投げる村山氏の銅像が飾られている。

なぜ、病院に? 実はこの場所が、村山氏の母校住友工業高(後の市立尼崎産業高校)があった場所なのである。

銅像は野球部のOBたちが中心となり、彫刻家・抜水政人氏に依頼。高さ3メートル。村山氏の7回忌にあたる平成16年8月15日に除幕式が行われた。

阪神の監督とトラ番記者として親交のあった村山氏だが、中学や高校時代の話はあまりしなかった。ただ「子供のころは野球で飯が食えるなんて想像もしなかった。立派な職工さんになる-それだけやったなぁ」としみじみと話したことがある。

その立派な職工となる学校が住友工業高だった。住友金属工業の土地に、工場で働く優秀な人材を育成するために、住友財閥が大正時代に作った〝職業学校〟が前身。卒業生のほとんどが住友系の会社に就職した。中等部もあり、村山氏は中学から通っていた。もちろん野球部に入った。

当時は身長160センチそこそこ。小柄な村山は中学では二塁手。そして住友工業高に進学し〝運命の恩師〟に出会った。藤田祐良監督である。彼は1年生・村山の地肩の強さと負けん気の強さから「投手をやれ」と命じ、そして2年生のある日、村山を呼び、手を見てこう言った。

「お前は手のひらが大きい。指も人より長い。だからボールを指に挟んで投げる練習してみろ」

これが村山の武器となったフォークボール。村山はこの〝出会い〟から大投手への「道」を歩き始めたのである。

江夏 大投手への道開いた2人の恩師

江夏氏の出身中学は尼崎市立園田中学校。当時のことは彼の自叙伝『左腕の誇り』(新潮文庫・波多野勝構成)に書かれている。

母子家庭だった江夏氏は新聞配達や野菜の配達などのアルバイトをして家計を支えた。

「辛いとか、何でオレが…と思ったことはない。当時はみんなそうやったからな」という。中学で江夏少年は野球部に入った。だが、数カ月たっても球拾いばかり。先輩に文句をいうとケンカになり、先輩を殴ってしまった。当然、退部することに…。

このとき〝運命の出会い〟があった。野球部の監督を務めていた杉山高毅先生である。先生もこの騒動の責任をとって野球部を辞めた。そして翌日、登校してきた江夏の手を引っ張って「陸上部に入れ」と強引に入部させた。

江夏は砲丸投げの選手になり、なんと15・20メートルを投げて近畿2位の記録で尼崎の大会で優勝した。それだけではない。杉山先生は相撲やバレーボール、ラグビーの試合にも江夏を引っ張り込んだ。

「オレにいろんなスポーツをさせて、体を鍛えてくれたんやね」

江夏は中学を卒業して就職する気でいた。だが、杉山先生が「お前は高校で野球をやれ」と説得した。こうして江夏は大阪学院大高へ進学。本格的に野球を始め、大投手への第一歩を踏み出すのである。

「江夏の21球」は尼崎バッテリー

写真を見ていただこう。昭和54年11月4日、近鉄-広島の日本シリーズ第7戦、4-3で迎えた九回、近鉄の攻撃。

1死満塁からの近鉄・石渡茂選手のスクイズを広島・江夏-水沼四郎捕手のバッテリーが見事に外す場面。そう『江夏の21球』で有名なシーンである。

実は江夏の投球を受ける水沼も尼崎出身。高校は兵庫県西宮市の報徳学園だが中学は尼崎市立立花中。〝尼崎バッテリー〟だったのである。

ちなみに、この回に先頭打者でヒットを放った近鉄・羽田耕一選手も尼崎出身(市立杭瀬小卒)。中学、高校は同県三田市の三田学園。

恩忘れぬ浪花節 村山実

関西大で頭角をあらわした村山はプロ野球の注目を浴びた。熱心だったのは巨人と阪神。だが、3年生のとき、右肩痛に襲われた。

「どこかにいい病院はないですか?」と助けを求める村山からスカウトたちが去っていく。プロアマ規定に抵触するおそれがあったからだ。阪神だけが病院を紹介した。当時の田中義一球団社長が関大のOBだったからだ。

「何も心配せんとじっくり治したらええ」

手術を受けて村山は復活。再びスカウトたちが戻ってきた。卒業前に巨人が契約金2千万円を提示。阪神は500万円。村山は阪神を選んだ。「なぜ、阪神に?」と、阪神の監督になっていた村山に質問したことがある。

「人間は受けた恩を忘れたらおしまいや。お金やない。それが男や」

浪花節の大好きな、村山実とはそんな人であった。

有名野球選手、多数輩出の尼崎

村山、江夏両投手以外にも尼崎出身の有名プロ野球選手は数多い。

投手では伊良部秀輝(平成23年死去)が有名だ。生まれは沖縄県コザ市だが、幼いころ母とともに尼崎へ移住。尼崎市立常光寺小(廃校)、尼崎市立若草中(現・小田中)卒。香川県の尽誠学園高に進み昭和62年のドラフト1位でロッテ。そのあとヤンキース→エクスポズ→レンジャーズ。そして星野仙一監督に招かれ阪神タイガースの一員になった。(田所龍一)

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