「○○伝説」と聞くや、すぐに飛びつく伝説好き。堺市堺区の「妙國寺」にたくさんの《伝説》や《史実》があるという。「夜泣きの大蘇鉄(そてつ)」「家康伝説」、そして鳥羽伏見の戦い直後、慶応4(1868)年に起こった「堺事件」などなど。筆者と同い年の堺観光ボランティア協会メンバー、川上由(ゆかり)部長(69)と一緒にさっそく訪ねてみることに―。
「妙國寺」には南海本線で堺駅下車、徒歩15分。南海高野線なら堺東駅から徒歩で10分。それとも大阪・天王寺から阪堺電気軌道に乗れば、妙国寺前駅から徒歩5分だ。
昭和48年に再興された本堂は立派。1階入り口を入ると観光ボランティア定点ガイド部長の上野数男さん(75)と北野しどりさん(74)が出迎えてくれた。早速、《夜泣きの大蘇鉄》を拝見―。
夜泣きの蘇鉄
「信長がひと目でほれて安土城へ持ち帰ったんですが、寒い安土の気候が合わなかったんでしょうね」と川上部長。
伝説では毎晩「堺へ帰りたい」と泣く蘇鉄に腹を立てた信長が「情けない、切ってしまえ」と命じた。一太刀浴びせるとその切り口から鮮血を吹き出しのたうち回る。気味悪がった信長が堺へ送り返した―というお話だ。
「堺に戻ったとき蘇鉄は傷だらけで枯れかけていた。当時の住職が1年間お祈りをしたら蘇ったんです。蘇鉄は《蘇》という字が入って、縁起のいい樹木なんですよ」
堺市には東西を貫く大きな道路「フェニックス通り」があり中央分離帯には蘇鉄が植えられている。太平洋戦争で焼け野原になった堺。市民の「もう一度、蘇るんだ!」という思いが込められている。
徳川家康
1582(天正10)年6月2日早朝、京都で「本能寺の変」が起こる。そのとき徳川家康が滞在していたのがこの妙國寺だ。
「ここから三河へ帰る家康の《伊賀越え》が有名ですが、その出発点となったのが妙國寺―とは、あまり知られていないんです」と川上部長。
徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)を含むわずか30人余りの供を従えて妙國寺を出発した家康一行は、宇治田原(京都)を越えて小川(滋賀)から伊賀-柘植―加太越―白子と三重県内を通過し、海路、岡崎(愛知)へ向かったというのが定説だ。
「定説は《京阪電車ルート》と呼ばれています。家康の伊賀越えははっきりとした文献が残っていないので、各地に《家康が休んだ○○》がいっぱいあるんです。みんな家康さんに自分たちのところを通らせたいんですよ」
川上部長によれば、最近になって出てきた新説が《近鉄大和路ルート》だ。
家康一行は妙國寺の住職の妹が嫁いでいた奈良の筒井家所縁の堺の豪商・筒井庄右衛門を頼り、まず奈良方面へ、それから服部半蔵の手引きで伊賀に向かったという。
「敵(明智勢)がいる京都方面を避けて奈良方面へ。住職の妹の嫁ぎ先―というのも信憑(しんぴょう)性があるとは思いませんか?」
《伝説》にはロマンがなくっちゃ。川上さんと筆者の共通意見だ。
妙國寺には小堀遠州作と伝わる「枯れ山水」がある。蘇鉄を中心にした珍しい枯れ山水だ。実はこの庭は家康の心を慰めるために造られたという。
「大坂冬の陣では徳川方は大坂城を攻め落とせなかった。真田丸の真田幸村にやられ毎日、毎日、家康はガッカリして妙國寺(本陣)に帰ってくる。それを見た小堀遠州が少しでも心の慰めになるように―と、家康が少年の頃に育った地、駿河の国(静岡)を庭に描いたんです。真ん中の三角の石が富士山、その前の松は三保の松原です」
左右には富士川と大井川。そして目の前には遠州灘。見事である。
幕末の堺事件
時代は進んで幕末維新。鳥羽伏見の戦いが終わった1868(慶応4)年2月15日に事件は起こった。
測量のため堺港に停泊していたフランス軍艦「デュプレクス号」のフランス人水兵が無断で上陸。神社仏閣に入ったり、人家に勝手に入って女性をからかったり。朝廷から堺の警備を任されていた土佐藩兵がこれを抑えた。
「船へ帰れ!」。だが言葉が通じない。水兵はみな20代前半の若者たち。藩旗を奪って振り回すなど悪ふざけが過ぎた。怒った土佐藩士たちは鉄炮を撃ち抜刀して切りつけフランス水兵11人が死亡、11人が負傷した。
これに怒ったフランス側は藩士の処分と15万ドルの賠償金を要求。まだ、力のない政府(朝廷)はこれを受け入れ、土佐藩士20人に切腹の命が下った。その切腹が行われたのが「妙國寺」の境内だった。
フランス政府要人の目の前で箕浦猪之吉らが次々に腹を切っていく。中には腸をつかみ出しフランス人にかざす者もいた。介錯によって首が飛ぶ。
ちょうどフランス兵の死者と同じ11人が切腹を果たしたとき、たまらなくなったのかフランス側から「もう、そこで…」とストップがかかったという。
「12番目に腹を切るはずだった人がずっと彼らのお墓を守り、亡くなったあと《12人目の志士》として11人のお墓の横で眠っています。当時は鎖国が明けたばかりで、こんな事件が全国で起こっているんです」と川上さん。
横浜で薩摩藩の行列を横切った英国人に藩士が切りかかった「生麦事件」が起きたのは文久2(1862)年。そして「堺事件」の1カ月前には、神戸で備前藩兵の隊列を横切った外国人に発砲した「神戸事件」が起こっている。《土佐十一烈士墓》は妙國寺の北隣の「宝珠院」にある。(田所龍一)
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毎年2月23日には妙國寺で「堺事件」についての講演会が開催されている。詳しくはsakaijikenjimukyoku@gmail.com