加齢とともに耳が聞こえにくくなる高齢者の難聴は、コミュニケーション障害による社会的孤立や認知症などの疾病、さらには転倒によるけがにもつながりやすい。耳鼻科医らの医学会は今秋、80歳でささやき声を聞き取れる30デシベルの聴力を保つことを促す「聴こえ80(ハチマル)3(サン)0(マル)運動」を始めた。補聴器を使うことも有効だが日本は諸外国に比べて普及率が低く、専門家は「健康のために聴力が重要だと意識して」と訴える。
音の大きさはデシベルで表され、木のそよぐ音は20デシベル、ささやき声は30デシベルに当たる。国内の人間ドックでは30デシベルが聴こえれば異常なしと判断されるが、WHO(世界保健機関)の基準はさらに厳格で、20デシベルが聴こえるレベルでも軽度の難聴とされている。
中耳炎や聴神経腫瘍など難聴を起こす病気はさまざまあるが、加齢の他に原因のないものを「加齢性難聴」と呼ぶ。音を感知する細胞の減少が原因で治療は難しく、補聴器によって聴力を補う対策が一般的だ。
だが、一般社団法人「日本補聴器工業会」の令和4年の調査では、難聴者への補聴器の普及率は欧米各国が40%超なのに対し、日本は15%と低い。愛知医科大医学部の内田育恵(やすえ)特任教授は「『齢だから』と、対策がおざなりになっている」と憂慮する。
要介護状態に陥りやすく
難聴を放置すると会話がしにくいために人との交流が減り、認知症や鬱病のリスクが高まるほか、活動量の減少で筋力が衰え転倒しやすくなる。結果、要介護状態に陥りやすくなるとされる。
補聴器を使えばこうしたリスクを減らせる。高齢化の進展による医療費の増大に歯止めをかけようと医師らが始めた「聴こえ8030運動」では難聴の進行を防ぐための禁煙や糖尿病治療などを提案するとともに、補聴器の使用も推奨。近年の補聴器は、音域ごとに必要に応じて音を増幅させるなど、個々の聴力に合わせた細かな設定ができる。
補聴器メーカー「オーティコン補聴器」(神奈川県)のフェローで、米国の聴覚の専門資格「オーディオロジスト」を持つ田中智英巳(ちえみ)さんは「目が悪くなれば眼鏡をかけるように、耳が聞こえにくなったら補聴器を」と訴える。
眼鏡と違うのは、補聴器を着けてもすぐに鮮明に聞こえるわけではないことだ。「初めは『周りの音がうるさくて相手の声が聞こえない』という人も多い」と内田教授。聴力の低下に伴い、雑音を抑制する脳の機能も低下しているためで、回復には数カ月かかる。装用して生活しながら、販売店で繰り返し調整することが大切だという。
加齢性難聴は少しずつ進行するため、本人に自覚がないことも。病気が原因の場合は治療で改善することもあり、内田教授は「聞こえづらいと感じたり、家族に指摘されたりしたら、まずは病院で検査を」と強調した。
趣味を取り戻した当事者の願い
加齢性難聴に限らず後天的に難聴になった場合、聞こえにくい現実から目を背けてしまう人も少なくない。兵庫県丹波市の西倉志帆さん(38)は20歳の頃に健康診断で難聴と分かったが、「受け入れない方が楽だと思っていた」と振り返る。
難聴と診断された当初、医師に勧められて補聴器を購入したが、着けることはなかった。だが、人との会話が「聞きとれるかどうかのテスト」のようで神経をすり減らす日々。疲労やストレスで、聴力はますます低下した。
10年ほど前、けがをした1歳の娘の泣き声が聞こえなかったことで、難聴と向き合う決心をした。補聴器を着けると、走行中の車の中での会話ができるようになり、好きだった友人とのドライブを再開。ラジオ番組や音楽も楽しめるようになった。
現在は補聴器専門店「ほちょうきのRe(アールイー)」に勤務。補聴器を着けるようになって口数が増えたり、外出を楽しんだりする利用客に身近に接している。一方で、本人が難聴を受け入れないという家族からの相談も多い。自身の経験から「一日でも早く補聴器を試してみてほしい」と訴えている。(藤井沙織)