ちょっと疑問に思っていることがある。町の本屋を元気にしなくちゃ、という発想だ。
市町村の本屋が消えていて、県によっては半分くらいの市町村から本屋がなくなっているらしい。それを文化の危機と考える人たちがいるようだが、果たしてそうだろうか。
たとえばカフェ。パソコンやタブレットを開く人がいっぱいいる。中にはインターネットで本を読んでいる人もいるだろう。このカフェの風景は本屋がどこにもあった時代にはなかった。公立の図書館も市町村にできているし、大学の図書館も市民に開放しているところが多い。これらも本屋がいっぱいあった時代にはなかったことだ。
本のある場所が変化したのである。従来の本屋はその変化に取り残されたのではないか。本好きだったボクは三日にあげず本屋へ行っていた。だが、今はめったに行かない。パソコンで用が足りるから。本屋の代わりによく行くようになったのは美術館とか植物園、映画館だが、かつての本屋への郷愁はまったくない。
本屋さんを敵にまわすような言い方をしているが、ボクには次のような思い出がある。
結婚して間のない20代の後半にマーケットの中の小さな本屋へ通った。その本屋は、本代の払いはお金のできたときでよい、と言ってくれた。おかげで折口信夫の全集や高価な研究書のたぐいが買えた。5年くらいつけ払いが続いたが、ボクはその奇特な店主に育てられたのだった。本屋さまさまである。
でも、今は、自分の部屋から本をなくしたいとボクは思っている。机上にパソコン、そしてそのそばの一輪挿しに道端の花を活けたいのだ。(俳人、市立伊丹ミュージアム名誉館長)