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箱根駅伝の栄光と五輪の挫折を糧に、指導者の道歩む 摂南大ヘッドコーチの竹澤健介さん 一聞百見

産経ニュース 2024年10月11日 14時0分

陸上男子長距離で活躍し、早大時代に2008年北京五輪にも出場した竹澤健介さん。現在は摂南大学(大阪府寝屋川市)で陸上競技部ヘッドコーチを務める。幼い頃から憧れていた東京箱根間往復大学駅伝(箱根駅伝)に出場するなど、自ら掲げた目標に向かって走り続けた現役時代を振り返りながら、指導者としては「やっぱり情熱が一番。そこに競技レベルは関係ない」と力を込める。

早大のユニホームに憧れ

陸上に興味を持つきっかけになったのは、幼い頃にテレビで箱根駅伝を見たこと。「当時は親が熱狂していて、僕は正月の特番を見たいのに、自然と映像が流れている状況だった」。1990年代前半は早大が、ケニア人留学生ランナーを擁する山梨学院大と覇権を争っていた時代。早大の臙脂(えんじ)のユニホームに憧れを抱くのに時間はかからなかった。

3歳からスイミングスクールに通い、小学生の頃は選手コースにも入っていたが、「年齢が上がるにつれ、体格のいい子供に勝つことが難しいと幼心に感じていた」という。一方で、マラソン大会に出ると、とくに練習をしていなくても勝てる体験が積み重なっていた。小学5年生のときに「水泳よりも陸上が向いていると思う」と、親に意思を伝えた。小学6年生までは水泳を続けることを約束し、中学から本格的に陸上を始めた。

兵庫・報徳学園高では全国高校駅伝で都大路を走る経験もした。高校時代は故障も多く、決して納得のいく成績ばかりではなかったが、早大への憧れはずっと抱いていたという。「早稲田のユニホームを着て走っている姿を想像していたから、それはずっとぶれることなく頭の片隅にあった」。その目標に向かって練習を続け、2005年に早大に進学した。

大学1年生で臨んだ初めての箱根駅伝では、いきなり各大学のエースが集う「花の2区」を任され、区間11位だった。「あの大声援を背に受けながら走る経験は初めてだった。舞い上がってしまって本当に覚えていないんですよね。気付いたらうまく走れなくて終わってしまっていた。ただ、悔しかったことだけ覚えています」

そこから、指導者に助言を求めるのではなく、何がダメだったのかを自己分析した。「結果を出すためには前半は自重しようとか、いくつか反省点が見つかった」。1年間をかけてイメージを膨らませながら練習し、2年生のときは同じ2区で区間賞を獲得した。3年生、4年生でも3区で区間賞に輝き、トップランナーへの階段を駆け上がっていった。

箱根駅伝の経験を通して感じたのは、自分の力で解決することが大事だということ。「指導者が選手の感覚に寄り添うのは大事だけど、やっぱり足が痛いとか、体がしんどいとかは本人でないと分からない。経験から何を感じるかは本人の課題だと思う」。その考えが指導者としての今にもつながっている。

大学時代を過ごした関東から、現在は生まれ育った関西を拠点にしている。箱根駅伝は全国的に人気が高いコンテンツで、関西の有望な高校生が関東の大学に進学する流れがあり、関西の大学の力が関東に劣る点は否めない。「指導は対象、環境、状況によって変わる」と強調する。それらが関東には劣る環境下で、いきなり選手たちに大きな結果を求めることはしない。「努力をして継続したことの成果が出たときに一緒に喜べる。小さな成功体験を積み重ねながら、少し背伸びすれば届く目標を達成させてあげたい」と誓う。

「自分の道は自分で決めた」

竹澤さんは早大時代に2007年陸上世界選手権(大阪)や08年北京五輪にも出場し、若くして世界の大舞台を経験した。世界へ羽ばたくことができた背景には、指導者から道筋を示してもらえたことが大きかったという。当時の渡辺康幸監督や大学OBの瀬古利彦さんから「大学4年で北京五輪を迎える。最高のめぐり合わせだな」と言われることが多く、無意識のうちに五輪を意識していた。

そのために、「この時期にこれぐらいのタイムで走ろうとか、自分で逆算して目標を設定できた」。先駆者がいる早大という環境にも恵まれ、自己研鑽(けんさん)につなげることができた。「指導者の役割はコンセプトや指針を示してあげることなのかな、と今は思っている」と話す。

北京五輪では1万メートルが28位で、5000メートルは予選敗退に終わった。「大舞台にたどり着いた達成感はあったけど、どうしたらトラックで1周前を走っている選手に食らいつけるのかが分からなかった」。世界の壁に直面したとき、自分の想像を超える何かをしないといけないと自問自答しつつも、答えは見つからなかった。自身の感情を指導者に伝えることも少なかったという。

その後の現役生活も多くの挫折を味わった。12年ロンドン五輪は出場を逃し、「なぜ自分がその舞台にいないんだろう」と自責の念にかられ、テレビで観戦することはできなかった。大学卒業後に進んだ実業団のエスビー食品では13年春に陸上部が廃部になる経験をした。当時のエスビー食品のスタッフや選手を受け入れる形でDeNAランニングクラブ(当時)が発足し、多くの仲間が移籍したが、同じ道を歩む選択はしなかった。

「ロンドン五輪を逃していたので、何かを変えなきゃいけないという危機感がすごくあったと思う」と振り返る。仲間と一緒に移籍しなかったのは「流れに身を任せるのではなく、自身の決断で進みたかったから」だという。その後も故障に悩まされて納得のいく結果は残せず、16年で現役引退。「現役生活の後半はうまくいかなくて、しんどいことばかりだったけど、自分の道を自分で決めたことは誇りに思う」と力を込めた。

両親が教員をしていた影響で、かねて指導者には興味を持っていた。「やっぱり自分が人生を懸けてきたことを軸に、何かを教えられる立場になりたいと思っていた」。兵庫・報徳学園高時代の恩師、故鶴谷邦弘さんの後を継ぐ形で19年春に大経大陸上競技部ヘッドコーチに就任し、22年春から摂南大で指導に当たる。現役時代に成功も失敗も多く経験してきたからこそ、学生に伝えられることは多い。

現役時代の苦しかった経験を話すとき、「思い出して気が重くなってしまうこともある」と苦笑する。けがが治らずに苦しんでいる学生の姿を見ると、共鳴することは多い。「そういうとき、どういう言葉を紡いで学生を導いていくか。他人に期待するのではなく、自分自身と向き合っていくしかないんだよと伝えたい」

今夏のパリ五輪では、かつての主戦場だった5000メートルや1万メートルのレースがやはり印象に残ったという。「世界との差を埋めるためにはどうしたらいいんだろうと本気で考えました。指導者として、世界で戦いたいという目線で見ていましたね」と話す。

今は世界を舞台にする学生を指導する立場ではないが、まずは土台作りから。関西からも駅伝の全国大会出場を目指し、学生たちと同じ目線に立って、一歩ずつ確かな成長を刻んでいく。

成功体験は押し付けない

摂南大の陸上競技部が強化に乗り出す流れの中、竹澤さんは講師着任とともに22年春にヘッドコーチに就任した。「長距離に関してはサークルに近い感覚だったけど、3年目になって形ができてきたところ。時間をかけて下地をつくっていきたい」。23年春に女子陸上競技部が発足し、今年2月には全国招待大学対校男女混合駅伝にも初出場した。現在は男女それぞれ、駅伝の全国大会出場を目標に、学生たちと一緒に汗を流す。

16年に現役を引退し、19年から前任の大経大で指導者の道を歩み始めた。新型コロナウイルス禍で大会が開催されない苦労も味わった。「頑張ったことに対するインセンティブがないのはしんどいですよね。単調な練習の繰り返しは難しい面もあった」。ただ、コロナも明け、大会に出て成果が出ることの喜びを改めて感じられるようになった。学生たちが喜ぶ瞬間に多く立ち会えるよう、新たな気持ちでチーム強化に取り組んでいる。

竹澤さんは早大時代から箱根駅伝を走って注目も集め、学生時代に北京五輪にも出場した輝かしい実績を持つ。「僕は大学時代から成果が表れて周囲から評価してもらえたけど、そうじゃない学生も多い。自分の成功体験は押し付けないようにしたい」と話す。現在指導している学生は全国でトップレベルの選手が多いわけではない。自身が現役時代は「自ら目標を設定して練習するタイプ」だったように、学生たちが自分の将来を思い描けるように、寄り添っていく方針だ。

これまで出会ってきた指導者にも多大な影響を受けてきた。兵庫県姫路市の中学校に通っていたとき、当時、報徳学園高でコーチをしていた平山征志(まさし)さんが視察に来て「ぜひ、うちに」と声をかけてくれた。「平山先生は兵庫県三田市に住まれていて、車で1時間半ぐらいかかると思うんですけど、僕が朝7時に練習に行ったら、すでに先生はいらっしゃっていた。すごく情熱を感じたし、この高校に進めば成長できると思った」

そんな経験があるからこそ、「指導は情熱が一番、愛が一番と思っている」と話す。「熱い思いがあるところに仲間が集まって、いつのまにか成果が出始める」。大学の陸上界は関東に強豪選手が集まる〝東高西低〟の傾向もあるが、「熱意は競技レベルには関係ない」と、きっぱり言い切る。

現役時代、トラックや駅伝で活躍したが、マラソンを走った経験はなかった。「当初は26歳ぐらいで初マラソンというイメージは持っていた」というが、実際はその頃は故障に悩まされ、ジョギングするのもやっとの状態だった。「後の姿が分かっていたら、もう少し早くチャレンジしたかもしれないけど、結局はその道を選んだのも自分だから」と、決して後悔はしていない。指導者としても、自分に責任を持てる学生を育てていくつもりだ。(丸山和郎)

たけざわ・けんすけ 1986年、兵庫県姫路市生まれ。兵庫・報徳学園高時代に全国高校駅伝にも出場。2005年に早大に進学し、1年時から箱根駅伝を走った。大学時代に07年の世界選手権(大阪)と08年北京五輪に出場した。09年に実業団のエスビー食品に進み、10年の日本選手権の1万メートルで大会初優勝を飾った。13年にエスビー食品が廃部となった後、同年に住友電工に入社し、16年限りで現役引退。大経大陸上競技部ヘッドコーチを経て、22年に摂南大陸上競技部ヘッドコーチ(スポーツ振興センター所属)に就任した。

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