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思い出す防弾チョッキ姿のフジモリ氏 日本大使公邸占拠人質事件で陣頭指揮 鳥海美朗

産経ニュース 2024年9月12日 11時50分

アルベルト・フジモリ氏といえば、あの時の防弾チョッキ姿を思い出す。

南米ペルー時間の1997年4月22日午後4時28分。武装過激派MRTAによる日本大使公邸占拠人質事件の127日目だった。ペルー軍特殊部隊の人質救出作戦が成功すると、当時大統領のフジモリ氏は間髪をいれず、現場に現れた。近くの民家に潜み、陣頭指揮していたのだ。

防弾チョッキを着たまま白いシャツの袖をまくり上げ、兵士とともに勝ちどきのこぶしを振り上げる様子が、産経新聞が借りていた公邸近くのマンションの部屋から見下ろせた。テロと対峙(たいじ)する大統領を象徴する防弾チョッキ姿は、「平和ボケ」の安逸な日々を送る日本人には衝撃的な光景だった。

この時のフジモリ氏は政治家として絶頂期にあった。事件が解決して3カ月後に訪日し、日本政府から約400億円の円借款供与を引き出す。日本人人質24人の救出を背景にした、したたかな外交だった。

南米の途上国に日本の官民が目を向けるきっかけをつくった政治家でもあった。国際協力の分野に力を入れる日本財団が、学校建設支援事業を最初に展開したのもフジモリ政権時代のペルーである。1993年から97年までに計50校、助成総額は約14億円にのぼった。2005年6月まで9年半、日本財団会長を務めた作家の曽野綾子氏がエピソードを語る。

「助成金がどう使われているかをこの目で確かめたい」と曽野氏がいうと、フジモリ氏は即座にアンデス奥地の現場に行く大統領専用ヘリを手配した。予告なしの視察はガラス張りの助成事業の証しでもあった。

晩年のフジモリ氏の転落は残念でならない。側近による野党議員買収の発覚によって、10年にわたったフジモリ政権は2000年11月、国会が大統領を罷免する異常な結末を迎えた。

その後のフジモリ氏は日本で5年間、事実上の亡命生活を送った後、結局はチリを経てペルーに移送された。人権侵害(殺人)罪への関与などで検察当局の訴追を受け、10年1月、禁錮25年の刑が確定している。

現職大統領時代のフジモリ氏には計3回、単独でインタビューした。日本から出国する直前にも東京都内で話を聞いた。この時、元ペルー大統領は取材場所となったホテルに自分で車を運転してやってきて、その翌年に行われる大統領選への出馬の意欲を隠さなかった。「私の復帰がペルー国の信頼回復につながる」

しかし、腹心が引き起こした前代未聞のスキャンダルの責任は、それまでの功績を帳消しにするほど重大である。

日本財団の尾形武寿理事長は22年10月の南米出張の折、リマ東郊のペルー国家警察の施設に収容中のフジモリ氏に面会している。その時のやりとりによれば、フジモリ氏は医師から「呼吸器系の疾患で、余命はあと5年」と告げられていた。だから1日に5、6時間もパソコンに向かい、自伝の執筆を続けたという。

フジモリ氏は、勤勉、忍耐、我慢といった日本的特質を保持する日系人の一人である。一方で、日本人にはまれな骨太の現実主義を身に着けていた。

あの防弾チョッキ姿が思い出されてならない。(客員論説委員、日本財団シニアアドバイザー 鳥海美朗)

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