水垢を構成する細菌の塊である「バイオフィルム」に悩まされるのは、地上だけでなく宇宙ステーションでも同じです。無重量環境におけるバイオフィルムの生成防止は宇宙開発における長年の課題でした。
コロラド大学ボルダー校のPamela Flores氏らの研究チームは、非常に細かいギザギザを持つケイ素の表面にシリコーンオイルを染み込ませた「潤滑剤含浸表面(LIS; Lubricant Impregnated Surface)」 (※1) が、無重量環境でバイオフィルムの生成を阻止するのに効果的であることを明らかにしました。このコーティングは、重力のある地上よりも宇宙ステーションのような無重量環境でより効果を発揮するという点で注目されます。
※1…LISの固体表面はケイ素(Silicon)であり、そのケイ素表面を覆う液体はシリコーン(Silicone)です。英語やカタカナでの表記が似ているためややこしいですが、ケイ素 (シリコン) は元素の単体、シリコーンはケイ素を含む高分子有機化合物です。
台所や風呂場などの水がある環境で、ネバネバした水垢に悩まされた経験は誰しもあるかと思います。この水垢の正体は細菌の集合体である「バイオフィルム」です。細菌の立場からすれば、表面を糖類のコーティングで保護し、水および水に含まれる有害物から自分自身を守るために生成するのがバイオフィルムだ、と言えます。ブラシや洗剤を使わないと水垢がきれいに除去できないのは、バイオフィルムが物理的にも化学的にも強い物質でできているからです。
除去しにくい性質を持つバイオフィルムの生成は、宇宙ステーションのような環境では地上以上に厄介な問題です。物資が限られる宇宙ステーションでは、水回収システムの配管にバイオフィルムが生成され、詰まってしまうことがしばしば問題となります。配管を洗浄・修理するために、機材を地上に送り返さなければならないことも珍しくありません。
また、バイオフィルムは滞在する宇宙飛行士の健康にも悪影響を及ぼすおそれがあります。現時点では宇宙ステーションのバイオフィルムと宇宙飛行士の病気が直接結びつけられた事例は報告されていませんが、地上では細菌感染症の65%、慢性疾患の80%がバイオフィルムに関連していると言われています。有人火星探査や月面基地での長期滞在のような将来的に予定されている長期の有人探査ミッションで、バイオフィルムは潜在的なリスクとなることが予想されます。
無重量環境でバイオフィルムを防ぐ方法はいくつか提案されています。例えば、表面を金属ナノ粒子や酸化剤で覆うことで、付着した細菌を殺すという手段が考えられます。しかしその場合は細菌の死骸が表面に堆積してしまうため、今度はそれを足場に細菌が増殖するという問題を解決するのが困難になります。
別のアプローチとして、そもそも表面に細菌を付着させないという方法も考えられます。この場合、表面を滑らかにすることで細菌の付着を防ぐことができます。とはいえ、話はそう単純でもありません。疎水性 (水を弾く性質) を持たせた表面は細菌が一旦付着してしまうものの、剥がれやすくもなるという複雑な挙動を示します。ところが、細菌が作るバイオフィルムの構成は複雑であり、表面の性質に合わせてバイオフィルムの性質を変化させることが観察されています。このため、細菌が付着しにくい表面を用意しても、細菌が “工夫” してバイオフィルムを生成するのを完全に防ぐことは難しいと考えられています。
■「LIS」で緑膿菌のバイオフィルム生成を防ぐ※2…論文中の元図では “Silicon oil” となっていますが、他の本文や画像の表記との比較や内容との整合性から、 “Silicone oil” の誤記であると判断しました。
Flores氏らの研究チームが開発した「LIS」は、これらの弱点を克服できる可能性があります。LISは1本が数百ナノメートル(数千分の1mm)単位の、まるで剣山のようなギザギザがあるケイ素のウェハーと、その間を満たすシリコーンオイルで構成されています。表面に塗布されたシリコーンオイルは、加工済みのケイ素表面の間を埋めるように自然と馴染みます。
今回の研究では、地上とISS (国際宇宙ステーション) の両方で実験が行われました。実験のサンプルには同じ株の緑膿菌(Pseudomonas aeruginosa)が使用され、物質表面で最大3日間に渡りバイオフィルムの生成が観察されました。LISの性能の比較対象には、ステンレスの1種である「SS316」が選ばれました。
実験の結果、緑膿菌のバイオフィルムはステンレス上では3日かけて成長し、地上とISSの微小重力環境の間にあまり違いはありませんでした。その一方、LISは高い割合で緑膿菌のバイオフィルム生成を防ぐことに成功しました。面白いことに、ステンレスと比べて地上のLISはバイオフィルムの生成を約74%抑えたのに対し、微小重力環境のLISはバイオフィルムの生成を約86%抑えたことがわかりました。3日間の実験だったので不明な点もまだ多いものの、微小重力環境で良い成績を収めたことは注目すべきポイントです。
Flores氏らは、LISが効果的にバイオフィルム生成を防いだ理由は、LISの表面に付着した核酸 (※3) にあると考えています。LIS上でバイオフィルムが生成されていない部分を分析したところ、DNAやRNAで生成された薄い膜が見つかりました。核酸はわずかに負の電荷(マイナスの電気)を帯びており、細菌の表面もわずかに負の電荷を帯びています。つまり、LISの表面に核酸が付着し広がっていれば、細菌は電気的に反発して弾かれてしまい、LISに付着することができないと考えられます。
※3…遺伝情報を持つ物質であるDNA (デオキシリボ核酸) やRNA (リボ核酸) のこと。
この推定は、LIS上でわずかに成長した緑膿菌のバイオフィルムの形状とも矛盾しません。LIS上とステンレス上でそれぞれ生成されたバイオフィルムを比較すると、厚さにあまり差はありませんが、LIS上のバイオフィルムのほうが覆う面積は狭く、鋭く盛り上がった山のような形状になっていて、ステンレス上に生成された平たいバイオフィルムとは形状が異なります。LISに付着した核酸が帯びる負の電荷によって細菌が遠ざけられていると考えれば、この形状に説明が尽きます。
では、LIS表面に付着した核酸はどこから来たのでしょうか?これは細菌に由来すると考えられます。核酸には水に溶けやすい部分(親水基)と油に溶けやすい部分 (疎水基) があります。細菌は水で培養されているのに対し、LISにはシリコーンオイルが染み込んでいます。つまり、LISの表面では水とシリコーンオイルによる核酸の “引っ張り合い” が生じることになるため、核酸に関連したタンパク質が変性されて、普段は細胞内に隠されている核酸が露出する可能性があるのです。
このメカニズムが正しい場合、LISはほとんどの細菌のバイオフィルム生成を阻害すると考えられます。今回の研究では細菌の生態がよく知られている緑膿菌で実験を行いましたが、この性質はほとんどのグラム陰性菌 (※4) とグラム陽性菌 (※5) に当てはまるため、非常に多くの細菌によるバイオフィルム生成を防ぐと考えられます。ただし、先述したLISが細菌の付着を防ぐ詳細なメカニズムは、過去の研究をもとにした推定であり、今回の研究でメカニズム面の実験が行われたわけではないため、今後のさらなる検証が必要です。
※4…グラム染色で赤色や桃色に染色される細菌の総称。今回研究対象となった緑膿菌をはじめ、大腸菌、サルモネラ菌、レジオネラ菌などが含まれます。
※5…グラム染色で青色や紫色に染色される細菌の総称。ブドウ球菌、連鎖球菌、ボツリヌス菌、セレウス菌などが含まれます。
■LISの性能試験はまだまだ続くこの研究はISSに滞在する宇宙飛行士の多忙なスケジュールの隙間を縫って行われたため、3日間という短い実験の結果に頼っています。そのため、LISが長期的にも有効かどうかはまだ分かっていません。今後の研究では、より長期間の培養でもバイオフィルムの生成が防がれるかどうかに主眼が置かれるでしょう。
微小重力環境で高性能を発揮するというLISの特徴は、簡単には部品が交換できない月や火星の長期有人ミッションで大きな性能を発揮するでしょう。用途としては、水が触れるホースやフィルターの他に、人間の手が触れる手袋や調理器具なども考えられます。また、地上の試験でも有効性が確認できたことから、地上でも同様の用途が考えられます。これから行われるであろう長期間の実験結果が期待されます。
Source
Pamela Flores, et al. “Biofilm formation of Pseudomonas aeruginosa in spaceflight is minimized on lubricant impregnated surfaces”. (npj Microgravity) David L. Chandler. “How to prevent biofilms in space”. (Massachusetts Institute of Technology)文/彩恵りり