異なる惑星系あるいは銀河の間を短時間で航行可能にすることは、推進システムの究極の目的と言えるかもしれません。この目標を達成する可能性を秘めた推進システムが、第2次世界大戦後まもなく考案されました。それが、反物質と物質が対消滅する際に放出されるぼう大なエネルギーを利用する反物質推進システムです。
今回、アラブ首長国連邦にあるユナイテッド・アラブ・エミレーツ大学の研究者らが、これまで提案されてきた反物質推進システムの評価内容をInternational Journal of Thermofluids誌に発表しました。
反物質の発見から約20年で提案された推進システムわたしたちが「物質」と呼ぶ対象は、電子、陽子、中性子から構成される「原子」が多数集まって成り立っています。これに対して反物質は、電子、陽子、中性子といった粒子(亜原子粒子)とは電荷や磁気モーメントの正負が異なる「陽電子」、「反陽子」、「反中性子」から構成されています。
反物質の存在は、イギリスの物理学者ポール・ディラックによって初めて示唆されました。ディラックは量子論に特殊相対性理論を組み込んだ「相対論的量子論」を構築するなかで、電子などのフェルミ粒子がしたがう「ディラック方程式」を導出しました。しかしながら、方程式の解が負のエネルギーを許容することから、ディラックは電子と対になる陽電子の存在を予言しました。その後1932年に、アメリカの物理学者カール・アンダーソンは宇宙線から陽電子を検出しています。
反物質と物質が衝突すると、両者は消滅(対消滅)し、膨大なエネルギーを放出します。このエネルギーを推進システムに利用する可能性を、1952年に反物質が発見された約20年後の1952年に、Leslie Shepherdが論文で提唱しました。Shepherdは、陽電子や反陽子、反中性子の対消滅によって得られるエネルギーを利用し、惑星間の航行を実現するロケットの可能性を示唆しています(※)。この論文は、反陽子がアメリカのローレンス・バークレー研究所で発見された1955年に先立つものでした。
※…Shepherdは、反陽子を“negative proton”と表現している。ただし、ディラックは1931年に“ディラックの海”として知られる負のエネルギーの解釈に関する論文を発表しているが、その論文中には“anti-proton”という用語がすでに用いられている。
「反物質」に働く重力は「反重力」ではないと確認 直接測定の実験は世界初(2023年10月4日)こうした反物質推進システムの可能性に魅了された物理学者のひとりが、SF作家としても活躍したロバート・フォワードです。フォワードが所属したアメリカ航空宇宙局(NASA)では、1970年代に次世代の推進システムの研究が活発化し、反物質推進のほか、時空の歪みを利用する「ワープドライブ」や「ソーラーセイル」の実現可能性が検討されていました。
NASAが「宇宙ヨット」向けの次世代技術を実証へ 何が変わる?(2024年4月26日) “ワープドライブ”が実現する日が来るかも? 新研究が示唆することとは(2024年6月4日) 反物質推進のさまざまなオプションを評価ユナイテッド・アラブ・エミレーツ大学の研究グループは、陽電子と電子、反陽子と核子(陽子あるいは中性子)による対消滅のプロセスを利用した推進システムについて、対消滅プロセスの利用可能性、反物質の貯蔵システム、推進システムの設計という3点に絞って評価しました。
陽電子と電子の対消滅を利用する推進システムのアイディアは歴史が古く、Eugen Sängerが1953年に「光子ロケット」を提唱したことで知られています。しかしながら、陽電子と電子の対消滅により高エネルギーのガンマ線がすぐに放出されるため、こうしたエネルギーを制御することはほぼ不可能だと評価しています。
いっぽう、反陽子と核子(陽子あるいは中性子)の対消滅では、エネルギーの放出までにタイムラグがあり、その間にエネルギーを制御することは原理的に可能であるため、陽電子と電子の対消滅よりもエネルギーを利用しやすいと評価されています。このプロセスでは、まずパイ中間子が生成され、その崩壊により高エネルギーのガンマ線が放出されます。研究グループによると、対消滅で得られる全エネルギーの約3分の2が粒子の運動エネルギーとして利用可能であり、残りの約3分の1のガンマ線エネルギーも活用できる余地があるとしています。
反物質の貯蔵システム反陽子は核子と対消滅しやすいため、貯蔵が非常に困難だと評価されています。これに対し、反水素は磁力で長時間封じ込めることが可能であるため、より現実的な貯蔵システムとして評価されています。事実、欧州原子核研究機構(CERN)が2002年に実施したATHENA(アテナ)実験では反水素の捕獲に成功しています。ただし、その量はナノグラム(1億分の1グラム)単位であるため、推進システムの実現に必要なぼう大な反物質の生成・貯蔵する技術を確立するまでの道のりが長い模様です。
反陽子と核子の対消滅を利用した推進システムとしては、直接エネルギーを利用する推進システムや、作動流体(working fluid)である水素の加熱に伴う熱膨張を利用した推進システム、対消滅に伴うエネルギーで電気スラスタに電力を供給する推進システムなどが候補として挙げられるといいます。研究グループによると、作動流体と加熱用のタングステン製ノズルだけで設計できるというシンプルさから、作動流体の加熱を利用する推進システムに高い評価を与えています。
研究グループによると、1キログラムの物質と反物質が対消滅した場合、核融合の250倍以上、従来の化学推進に伴う推進よりも8桁以上のエネルギー密度を実現でき、その比推力は約2000万m/sに達するといいます。しかし、現状では反物質推進の実用化にはばく大なコストがかかり、反物質ミリグラムあたり1000万米ドルまで削減しないと核分裂反応を利用した推進システムよりも安くならないようです。
また、対消滅により発生する放射線が宇宙飛行士に与える影響や、放射線防護の技術的課題も無視できないといいます。
現段階では夢物語に近い技術ですが、研究グループによると、反物質推進に関する論文数は25件程度だった2000年から飛躍的に増加し、2012年から2023年までの期間では年間100件から125件のあいだを保っているといいます。
こうした研究の進展には国家および国際的な協力が欠かせないと、研究グループは論文を締めくくっています。
Source
Universe Today - Antimatter Propulsion Is Still Far Away, But It Could Change Everything S. A. Omira and A. H. Mourad - Future of antimatter production, storage, control, and annihilation applications in propulsion technologies(International Journal of Thermofluids) G. Vulpetti - Antimatter Propulsion for Space Exploration(Journal of the British Interplanetary Society) M. Amoretti, C. Amsler, et al. - Production and detection of cold antihydrogen atoms(Nature) R. Zhang - Antimatter and Its Application-Collecting Antimatter and Storage It as Energy Source(Journal of Physics: Conference Series) P. Dirac - The quantum theory of the electron(Proceedings of the Royal Society A) P. Dirac - Quantised singularities in the electromagnetic field,(Proceedings of the Royal Society A) Internet Archive - Interstellar Flight(Journal of the British Interplanatary Society) NASA Technical Reports Server - Antiproton Powered Propulsion With Magnetically Confined Plasma Engines NASA Technical Reports Server - Breakthrough Propulsion Physics Research Program Defense Technical Information Center - Advanced Space Propulsion Study - Antiproton and Beamed Power Propulsion Centauri Dreams - Antimatter Propulsion: Birth of a Concept文/Misato Kadono 編集/sorae編集部