1955年3月、東京の国分寺で小さなロケットの発射実験が行われた。日本のロケットの父と呼ばれる故・糸川英夫を中心に開発が行われた「ペンシルロケット」だ。しかし、その21年前の1934年に神奈川県辻堂の海岸でロケットの打ち上げを行った人物がいる(諸説あり)。終戦まで、海軍の火砲発射薬やロケット用推進薬の開発・生産拠点だった神奈川県平塚市の海軍火薬廠(かやくしょう)に勤めていた海軍技術士官、故・村田勉。彼は、その技術を戦後のロケットへ繋いだ。
戦前、戦時中のロケット開発
村田が研究し、生産していたのは有人ロケット特攻機「桜花(おうか)」やロケット弾に搭載された固体のロケット火薬である。桜花は戦況が厳しくなった1944年に開発が始まり、燃焼時間が約9秒の火薬ロケットを3本搭載した対艦兵器だ。「一式陸攻」という母機に吊るされて出撃し、目標が近づいたら人が乗り込み分離し、発射する。
桜花などに使われた大きなロケットの推進薬を製造するためには大量の火薬を圧出できる新しい機械が必要だった。そこで村田は機械の設計を大幅に変更し、これを用いて推進薬を生産することに成功した。
平塚空襲
1945年7月16日から17日にかけて、村田が勤めた海軍火薬廠があった平塚はアメリカの大規模な空襲を受けた。約44万本の焼夷弾を落とされ、約38万本を落とされた東京大空襲よりも規模が大きなものだった。しかし、当時の人口が約5万人だったのに対し、死者数は328人(平塚市博物館「平塚の空襲と戦災を記録する会」調べ)と、東京大空襲と比べると被害は少なかった。主に軍需施設を狙った爆撃であることに加え、当時の平塚は狭い範囲に居住区が集中しており、住民は空襲警報を聞いてから約5~10分で水田のほうへ逃げることができたためだという。
この空襲で重要な点は、火薬廠で最先端のロケット研究をしていたから平塚が狙われたのだと思っている市民が今でも多いということだ。しかし、長年に渡って火薬廠や平塚空襲について研究してきた平塚市博物館元館長の土井浩(71)は「平塚は火薬廠や航空機などの工場があるだけではなく海軍が必要とする食料の一大備蓄基地でもありました。70年前の平塚の空襲は、戦場から遠く離れた軍需の町を徹底して破壊する、戦略爆撃でした。」という。アメリカは7月30日の空襲で、平塚で航空機の製造をしていた日本国際航空工業(現・日産車体)に対して、集中的に空襲を行っていた。このことから、実際にアメリカが重要視していたのは航空産業だったことがわかる。
戦後のロケット開発
日本のロケットは当時の戦争において、ロケット弾のように硫黄島上陸作戦などで大きな戦果をもたらしたものもあれば、桜花のようにそうではなかったものもある。その技術は戦後途絶えてしまったかに見えたが、一つの出会いによって戦後に受け継がれた。
1952年に戦後から禁止されていた日本の飛行機開発が解禁され、糸川英夫はロケットに注目し、それを開発するために東京大学生産技術研究所にAVSA(航空電子・超音速航空工学連合)研究班を設置した。ロケット開発の目標は、1957年の国際地球観測年(IGY)に、ロケットによる地球大気の観測を行うことだった。
糸川とロケット開発を行った富士精密工業(プリンス自動車工業→現・日産自動車→現・IHIエアロスペース(宇宙関連部門のみ事業譲渡))の戸田康明はロケット推進薬を開発できる人材を探した結果、戦後、日本油脂(現・ニチユ)で働いていた村田にたどり着いた。村田は1967年に社長となり、現在の同社はH-ⅡAロケットの固体推進薬を製造している。この誘いに対して、村田は大変喜んで承諾したという。
「村田さんが火薬を提供していなければ、ペンシルロケットが生まれることはなかったでしょう。」(平塚市博物館学芸員 藤井大地(31))
ロケット開発に参加した村田は、戦前に使っていた成型機を修理し、ダブルベース推進薬を製造した。ダブルベース推進薬はニトロセルロースとニトログリセリンという、2つの不安定な物質からできている推進薬だ。これは、ペンシルから続く、ベビー(1955年8月打ち上げ)からカッパ4型(1957年9月打ち上げ)までのロケットの推進薬となった。カッパ5型以降のロケットにはダブルベース推進薬ではなく、それよりも性能がいいコンポジット推進薬が爆発事故などを起こすなど試行錯誤しながら開発され、使われた。
村田が初めに提供したダブルベース推進薬は宇宙には到達できない性能だったが、これがなければカッパ4型までの試験はできなかったため、観測ロケットの初期開発に大きく貢献したと言えるだろう。しかし村田は生前、「村田が亡くなっていたら日本のロケット技術は遅れをとっていたのではないか」、という質問に対してこう答えている。
「戦争中に大失敗ばかりくり返しつつ、どうにか『ものらしいもの(使用できる推進薬)が作れる』ところまで漕ぎ付けたわけです。その苦労をした者としてはそういっていただくとうれしいです。もし私がいなくても、いずれは、いやすぐ、いまの人たちによって今日のレベルへ追い着いたでしょうね。」1)
村田が繋いだ技術は、戦後71年の今でも受け継がれている。固体ロケットであるM-V(ミューファイブ)ロケットが2006年に廃止されて以来途絶えていた日本の固体ロケットは、2013年に「イプシロンロケット」として復活した。
「戦後の人はもちろん平和利用でロケットを開発していましたが、戦前、戦時中のものを含め、技術はすべてつながって現代にあるということは伝えていかなければなりません。」(藤井学芸員)
受け継がれてきた日本のロケット技術は、これからの未来へ繋がっていく。
平塚市博物館「知られざる平塚のロケット開発」
現在、平塚市博物館で特別展示「知られざる平塚のロケット開発」が開催されている。記事中で一部紹介した貴重な資料とともに、戦前から現代までに至る日本のロケットの移り変わりを学ぶことができる。また、現在の平塚でロケットの部品を製造しているメーカーや、東海大学と神奈川大学の学生が行うロケット開発も展示されている。開催期間は12月18日まで。月曜休館で、入館は無料。以下のイベントも開催される。
・特別展展示解説
日時:12月10日(土)午後1時~1時50分
会場:1階特別展示室 講師:藤井大地(当館学芸員) 参加:自由
・講演会「大学のハイブリッドロケット開発」
日時:12月18日(日)午後3時30分~5時
会場:3階プラネタリウム室 講師:東海大学・神奈川大学学生 参加:自由(定員70人)
展示終了後も一部の展示物は12月23日(金)から博物館2階の情報コーナーでも展示され、特別展の図録は引き続き700円で販売される。
(文章中敬称略)
引用文献
1.村田勉(1990)『私の研究余録:海軍12年・会社45年』,p123
参考文献
大澤弘之(1996)『図説 日本ロケット物語―狼煙から宇宙観光まで』三田出版会
平塚市博物館 http://www.hirahaku.jp/?utm_source=rss&utm_medium=rss