こんにちは、外科医の後藤です。
日本を含む国際宇宙探査「アルテミス計画」では、2024年に有人月面着陸、2028年までに月面基地の建設を開始するというロードマップが掲げられています。
また、中国は2019年1月に世界で初めて月の裏側へ無人探査機を着陸させ、さらに20年12月には月の土壌を地球へ持ち帰るサンプルリターンに成功しました。
火星などさらなる深宇宙有人探査に向け、各国宇宙機関の熱視線が注がれる月ですが、月面の環境は人体にどのような影響を与えるのでしょうか。
月面ならではの特殊性や難しさはどこにあるのか、今回はそれについて整理したいと思います。
月面の身体影響① 地球の約1/6重力環境国際宇宙ステーション(ISS: International Space Station)ではほぼ無重力に近い環境ですが、地球から38万km離れた天体である月には、地球の約1/6の重力(1/6g)が存在します。
重力の存在は、人体にとっては無重力で問題となる筋萎縮や骨量減少などの観点では望ましいことのように思われますが、重力環境ならではの問題点も発生します。
まず、移動に歩行が必要となること。
ISSの微小重力環境では壁を押すことで空間を移動できるので歩行の必要がありませんが、月面での自力移動には、ホッピング歩行(ピョンピョンと飛び跳ねるような歩行)と呼ばれる地上とは異なる様式が要求されます。
これはかなり難しいようで、アポロ計画時代に月面で飛行士たちが繰り返し転倒するシーンはよく目にします。
転倒するということは「外傷のリスク」に直結するということであり、この対策が求められるのです。
JAXAの「将来有人宇宙活動に向けた宇宙医学/健康管理技術ギャップ一覧」においても、重力圏での外傷の対策は非常に多岐にわたって求められています。
骨折や臓器損傷など重度の外傷を受けた場合、現地で外科治療などを行う必要性も想定され、必要最小限の医療資源にとどまる現在の状況からさらなる救急医療体制の整備、地上から遠隔での医療をサポートする技術が求められます。
二足歩行を行うヒトが歩行動作をスムーズに行うためには、下肢を中心とした多くの筋肉活動をリズミックに調整する必要があります。
この歩行に必要な筋肉や皮膚からの感覚情報として、特に荷重に関連した情報が重要です。
月面では歩行時にかかる荷重や感覚情報が地上と大きく異なるため、歩行に関する神経制御システムがどのように変化するのかについて、同志社大学の宇宙生体医工学研究プロジェクトで研究が行われています。
現在は、空気圧で体重を免荷できる特殊なトレッドミルを用いて、火星や月に相当する体重条件での筋活動や脊髄反射の変化を調べているとのことです。
また、前回お話した重力再適応、つまり重力酔いの問題も重要です。
地球から 38 万 km 離れた月面滞在ミッションでは、地上から 3-5 日間かけて無重力環境で移動後、1/6g の月面重力環境で数週間以上滞在することになります。
地球に帰還する際には、再び 0g の重力環境で数日間移動後に、1gの地球重力への身体の再適応が必要となります。
このように月面滞在ミッションでは、1/6gの可変重力環境に対する前庭症状(酔い)など身体の生理学的対策も求められています。
月面の身体影響② 強い宇宙放射線宇宙は重粒子線や中性子線、ガンマ線など様々な放射線が混在する環境であり、ISSに滞在する宇宙飛行士は1日に0.5-1.0mSv(ミリシーベルト)の線量を被ばくしています。
これは地上での被ばく量の100倍以上に相当します。
一方月面はほとんど大気が存在せず真空に近い状態であり、磁気圏を持たないため太陽系外からの宇宙放射線や、太陽からの太陽粒子現象(SPE: Solar Particle Event)がそのまま到達しています。
月面で受ける被ばく量は年間約420mSvと地上の200倍以上となるため、月面居住施設には十分な放射線防御対策が求められます。
月面下の深さと線量の関係による文献報告では、月面では最低限5m以上地下に潜って生活することが必要とされており、それでやっと地上の放射線業務従事者と同じレベルとなります。
また月面で活動中に太陽フレアが発生した場合、1mくらいの地下にすぐ潜って退避し、さらに数日は滞在できるよう、食料などを備蓄した洞穴を至る所に作る必要があるのではとの専門家の報告もあります。
月面での地下生活の現実性について、現在月には日本の月周回衛星「かぐや」(SELENE)によって巨大な縦孔が発見されています。
この縦孔地形を、長期月面滞在において放射線防護空間として利用する構想が発表されています。
最新の放射線科学研究に基づく数値シミュレーションによると、50mに及ぶ縦孔の底では、被ばく量は月表面の10%以下(年間約20mSv)まで低減されることが分かりました。
これによって、地球上での職業被ばく基準値(5年間で100mSv)以下の放射線環境が得られるということになります。
本成果は長期の月面滞在ミッションに向けて、新たに遮蔽材を持ち込むことなく、月に安全な放射線防護空間を確保できることを示した重要な知見です。
放射線対策に加え、隕石飛来(直撃だけでなく、二次衝撃による微粒子の爆風が大きな問題)のリスクもあるため、地下空間に居住区を建造するというのは現実的な判断のように思われます。
レゴリスとは惑星や衛星天体の表層土で、微小天体の衝突によって生成したガラス片、粉末(ダスト)などの総称です。
月レゴリスのうち、1cmより小さいものを月ソイル、その中でさらに20μmより小さいものをダストと表記し、地球の土壌と比べて有機物や粘土などを含まずガラスを多く含む、ギザギザした鋭利な物が含まれるという点が大きく異なります。
月面では1/6g環境により、舞い上がったレゴリスはすぐに沈降せず長く浮遊します。
これが目に入ったり、吸入したりすると角膜潰瘍を起こしたり、呼吸器損傷を起こす危険性が指摘されています。
月面作業はもちろん宇宙服を着て行われるはずですが、月レゴリスには磁気・帯電作用もあるため宇宙服にまとわりつき、ローバーはじめ接触する機器すべてに付着して故障にもつながります。
月レゴリスには繊維状物質やグラスファイバーが含まれていることより、身体への有害性が出現します。
地球上での代表的な繊維状物質は有名なアスベストであり、繊維化である石綿肺、肺癌や悪性中皮腫などの腫瘍、びまん性胸膜肥厚などの職業性肺疾患を誘発することで知られています。
1970-1980年代の研究ですが、実際の月レゴリスをラットやモルモットに気管内投与した実験では、重篤な肺障害を引き起こしたことが報告されています。
さらに、肺以外にも皮膚や眼への刺激・リンパ系・循環器への健康被害を引き起こすことが知られています。
よってNASAでは、宇宙服に付着した月レゴリスを居住区内に持ち込ませないよう、下の写真のように船外宇宙服をエアロック内でなく常にローバー与圧室外に設置しておく方法が考案されています。
一方で、月レゴリス内に酸化物として存在する酸素を取り出す技術を、ESAの支援を受けグラスゴー大学が研究しています。
さらに酸素を抽出した副産物として、さまざまな金属を含んだ合金を活用することも期待されています。
月面ミッションでは悩みの種となる月レゴリスですが、このように人類の月面居住において恩恵となる可能性もあるのです。
今回は、月面に特有の人体に影響を与える問題点について紹介しました。
長期月面滞在ミッションの実現に当たっては、まずインフラストラクチャ―の整備とともに、これらの医療課題の解決が同時に求められます。
月面を深宇宙への出発点そして多くの人が訪れる場所とするために、今後も様々な角度からの研究が求められていくでしょう。
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参考資料 Radiation dose and its protection in the Moon from galactic cosmic rays and solar energetic particles: at the lunar surface and in a lava tube. Journal of Radiological Protection, 2020 Small impacts are reworking the moon’s soil faster than scientists thought. Arizona State University News, 2016 JAXA:過酷な月の宇宙放射線被ばく線量を縦孔利用で月表面の10%以下に―将来の月における有人長期滞在活動の実現に向けた重要な科学的知見― 月面滞在ミッションに必要な運動生理学に関する検討課題. バイオメカニズム学会誌,2010 宇宙からみたリハビリテーション医学. Jpn J Rehabil Med, 2009 月面ダストの生体影響. Earozoru Kenkyu, 2009 宙畑ニュース アルテミス計画総まとめ! 2020年代の月面開発はどこまで進むのか 宙畑ニュース JAXA「はやぶさ2」・中国「嫦娥5号」がサンプルリターンに成功 Astronauts falling on the Moon, NASA Apollo Mission Landed on the Lunar Surface – YouTube 月面の環境(レゴリスを中心に) JAXA資料
Source: ABLab
文/後藤正幸 (Twitter)(Facebook)
「宇宙に、医療を」目標とする脳神経外科医。医療分野での宇宙ビジネス創出を目指して、日々活動中。最新の宇宙医学研究を、多くの人に分かりやすく伝える発信を行なっている。