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タイガースを1か月半で解任された“謎の老人監督”の知られざる素顔に迫るノンフィクション/『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』書評

日刊SPA! 2024年2月27日 8時50分

 世の中には読んだほうがいい本がたくさんある。もちろん読まなくていい本だってたくさんある。でもその数の多さに選びきれず、もしくは目に留めず、心の糧を取りこぼしてしまうのはあまりにもったいない。そこで当欄では、書店で働く現場の人々が今おすすめの新刊を毎週紹介する。本を読まなくても死にはしない。でも本を読んで生きるのは悪くない。ここが人と本との出会いの場になりますように。
 2月はプロ野球ファンにとってシーズンの始まりである。各チームはキャンプを経てオープン戦をスタートさせ、書店には選手名鑑が並び、メディア報道も一段と増えてくる。昨年は阪神タイガースが38年ぶりの日本一に輝き、「優勝」を意味する岡田監督の「アレ(A.R.E.)」という言葉が新語・流行語大賞の年間大賞になるなど大きな話題になった。

 その阪神タイガースは、かつてプロ野球経験がまったくない老人を突然監督に据え、選手・フロントを巻き込んだゴタゴタの騒動の末に開幕から1か月半で解任したことがあるのをご存知だろうか。プロ野球の長い歴史の中でも相当奇妙な監督人事だったこのときのことを、令和の現代から辿ったノンフィクションが今月発売された。それが村瀬秀信著『虎の血 阪神タイガース、謎の老人監督』である。

 今から70年前、1954(昭和29)年12月。大阪タイガース(現・阪神タイガース)球団は来シーズン指揮を執る新監督に岸一郎が就任した、と発表した。岸は大正時代に学生野球で活躍していたというものの、プロ野球経験はまったくない60歳の老人だった。約30年間野球界と離れていた岸は監督就任会見で「若い選手を率先して使う。(チームの大スターである)藤村富美男であっても当たりが止まれば外すこともありえる」と宣言。停滞していたチームを選手の入れ替えで奮い立たせようとするが、藤村らベテラン選手たちはこれに反発、チームは内部混乱に陥り迷走。対巨人戦9連敗を喫したところで岸監督は解任された。開幕から33試合、1か月半でのことだった。後任監督には球団生え抜きの大スター・藤村富美男が選手兼任監督を務めることで、ひとまず落ち着いた……かに見えた。

 だが岸監督を追い出したスター選手・藤村は監督就任後、今度は自分が選手から突き上げられてしまう。「藤村監督の下ではやっていられない」と。かくしてここからタイガースという球団はチーム内部で揉め事が起こる「お家騒動」が定期的に発生し、その様子や内情があちこちの媒体で報じられてしまう球団になっていく。

 そのきっかけは、この「謎の老人監督の就任劇」にあったのでは、と著者の村瀬秀信は仮説を立てる。「選手がNO!といえば監督が引っ込む」という“選手王様体質”の誕生と、「タイガースの揉め事は数字/部数が取れる」ということをメディア側が発見した、負のエポックメーキングな出来事だった、と。

 いったいなぜ阪神球団は素人である老人を連れてきたのか。突然現れ、そしてあっという間に野球界から消えていった岸一郎とはどんな人だったのか。70年前のプロ野球で1か月半だけ監督を務め、ほとんど記録も残っていない人間のことを著者の村瀬秀信は丹念に時間をかけて洗い出す。参考資料もほとんど残っておらず、証言をとれる関係者も極めて少なくなっている中、執念とも呼べる取材で村瀬は複数の貴重な証言にたどりつく。そこから見えてきたのは、野球を愛した一人の老人の深い愛憎と悔恨、そして「情報が伝達されない時代」の適当とも言える奔放さと怖さだった。

 本当なら故郷で余生を過ごすはずだった一人の老人が味わった苦難の出来事と、そこから始まったタイガースの歴史。私はこの本を読んであらためて「ノンフィクションという針」を実感した。

 大谷翔平が「10年1015億円」という途方もない契約をロサンゼルス・ドジャースと交わしたことが世界中で報道される一方で、村瀬はただ一人「今から70年前に、1か月半だけタイガースの監督をやった、現代ではほとんど知られていない野球人」のことを調べていたのだ。そしてそれが想定外に面白い。こういう話はテレビからも、新聞からも、まして球団オフィシャルSNSからは絶対出てこない。本でしか書かれないのだ。それは小さな点でしかなくても、触れれば痛みが鋭く伝わる針のような存在として、ひっそりと書店の棚に並んでいる。野球を愛するすべての人に読んでもらいたい。

 最後に、作中でもひときわ印象に残った言葉を引用して終わりにしたい。プロ野球、なかでも阪神タイガースの監督業というものが我々には想像もしえない過酷な業務であることを類推させる、二人の言葉である。

「タイガースは監督になると、泥をかぶらせる役回りにしてしもうたんやな。その伝統を作ってしまったのが、岸一郎を監督に置いた野田誠三(筆者注:1952~1974年までのオーナー)以降の時代。これはおれらマスコミが過剰に騒ぎ立ててしもうとるのが悪いということもある。でもファンの人かて、監督みたいな試合中は何やっとるかよくわからない人よりも、目の前でホームラン打ってくれる選手や、完封してくれるピッチャーがわかりやすくて好きやんか」
内田雅也(筆者注:1985年の入社以来、阪神を取材し続けているスポーツニッポン記者)

(球団への愛はあるか?という記者の問いに)「球団に愛はないわ。阪神という名前に愛はあるけどな」
岡田彰布(筆者注:二度目の監督就任となった2023年最初のキャンプで、報道陣からの質問に答えて)

評者/伊野尾宏之
1974年、東京都生まれ。伊野尾書店店長。よく読むジャンルはノンフィクション。人の心を揺さぶるものをいつも探しています。趣味はプロレス観戦、プロ野球観戦、銭湯めぐり

―[書店員の書評]―

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