満を持してアメリカに渡った福留孝介だが、待っていたのは「過度な練習をするな」という監督指令だった。自分のペースで調整できないストレスにより、少しずつ乱れていく歯車。5年にわたるメジャーリーガーとしての日々で、福留がつかんだもの、つかめなかったものとは何か?
◆地元ファンからも愛される上々のスタートを切ったが…
カブスでのメジャー1年目となった’08(平成20)年は150試合に出場して、打率257、10本塁打、58打点に終わった。開幕戦は初打席初ヒット、さらには初ホームランも放った。チームは好調で、オールスターにはファン投票で選ばれた。
この頃、本拠地であるリグレー・フィールドでは「偶然だぞ」と記されたボードを掲げる地元ファンの姿があった。
「ライトを守っていたら、ファンの人が“偶然だぞ”ってボードを掲げているから、すぐに通訳に尋ねましたよ(笑)」
カブスファンが好んで使う「It’s gonna happen」(「何かが起こるぞ」「ついにそのときが来た」)をネット翻訳した直訳がこのフレーズだったのだ。
「守備に就いているときには多くのファンが《偶然だぞ》って掲げているから、それを見ながらずっと笑っていました」
◆変化を恐れず臨機応変に対応した2年目
熱狂的な地元ファンからも愛される上々のスタートを切った。しかし、夏場に差しかかると成績は下降する。ルー・ピネラ監督の「試合前にはハードな練習をするな」という方針もあって、日本で行っていたような練習ができず万全のコンディションがキープできなかったのだ。
「1年目は日本でやってきたスタイルのままプレーしたけど、結果が出なかった。だから2年目はステップの仕方、タイミングの取り方、トレーニング方法も変えました」
自分を信じブレずに信念を貫くこと。その一方で固定観念に固執せず、変化を恐れず臨機応変に対応すること。福留にとって、前者が1年目であり後者が2年目だった。
「手元でボールに差し込まれないよう足を上げずにスライドステップやノーステップを試みました。ボールの反発に負けないようにバット材は日本産のアオダモからカナダ産のメイプルに替えました」
他人から見ればわずかな差であっても、当事者にとっては「なかなかアジャストできない」大差であった。
「郷に入れば郷に従えじゃないけど、いつまでも日本でのやり方にこだわっていてもストレスを溜めるだけですから、『そういうものなんだ』と割り切るようにしていました」
◆妻からは「性格が丸くなった」
自分の意思で変えられないことに対していつまでも抗っていても意味はない。ある意味での達観が重要になるのかもしれない。渡米後、福留は「性格が丸くなった」と妻に言われたという。「自分では丸くなったという自覚はないんですけど」と福留は笑った。
「日本にいるときはある程度のことは自分一人でできました。でもアメリカでは通訳や練習パートナーもそうだし、周りのサポートがなければ何もできない。日本での当たり前がアメリカでは通用しない。そんなことに気づかされました」
アメリカでの2年目、3年目も、日本のような成績を残すことはできなかった。春先は成績がいいのに、夏場になるとベンチを温める試合が増えていく。与えられた環境のもとで自分にできることは精いっぱい取り組んだ。それでも結果が出ないままカブスでの4年契約の最終年を迎えた。
◆メジャー4年目、自らの意思で決めた移籍
しかしシーズン途中、自らの意思でクリーブランド・インディアンスに移籍を決める。
「試合に出る機会が少しでも欲しい。そんな思いから自分で判断しました。そして、その年のオフに(シカゴ・)ホワイトソックスと契約したものの故障もあって、思うような成績を残せませんでした……」
4年目終了後に日本球界へ復帰することも可能だった。しかし、本人がそれを拒んだ。
「日本に戻るという選択肢は自分の中にはなかったですね。ホワイトソックスでは脇腹を故障して、シーズン途中にリリースされてしまいました。それでも、まだ日本に戻るつもりはありませんでした」
シカゴに家を購入し、グリーンカードも取得した。それは、腰を据えて挑戦する覚悟の表れでもあった。
◆「もっと若い頃に…」35歳で経験したマイナー生活
渡米5年目の’12年7月、福留はヤンキースとマイナー契約を結んだ。3A・スクラントンでのプレーは、すでに35歳になっていた福留にとって、何から何まで初めて経験することばかりだった。
「10時間以上のバス移動も経験しました。飛行機はもちろんチャーター機ではなく、試合直前に球場入りすることもありました。彼らはみんなハングリーで同じ国出身のメジャーリーガーから道具をもらってプレーしていました。あのときの経験は二度としたくはないけど、もちろん挫折だとも思っていません。もっと若い頃にあの経験をしたかった。そんな思いが強いですね」
日本でトップスターだった福留にとって、35歳で経験するマイナー生活は、単なる「選手として」ではなく、「一人の人間として」はとても貴重な経験となったという。
「若い選手たちはみんな貪欲でした。誰からでも学ぼうとしていました。道具の件もそうだけど、日本では経験することができないことばかりでした。もう少し僕が若ければ、本当にいい経験になったと思います。でも、僕はこのときすでに35歳でした……」
胸の内には「自分はこんなことをするためにここに来たわけではない」という思い。5年間のアメリカ生活も終焉が近づいていた。
「この頃、日本でもう一度チャンスがあるのならばトライしてみたい、という思いが芽生えてきました」
◆45歳まで現役を続けられたのは「アメリカ野球を経験したから」
こうして、翌’13年からの日本球界復帰が決まった。新天地は阪神タイガースだった。以来、福留は’20年までの8年間、さらに’21年からの2年間は古巣のドラゴンズに復帰し、’22年限りで24年間の現役生活にピリオドを打った。
36歳で日本球界復帰を果たしてから、45歳まで現役を続けることができたのは、「アメリカ野球を経験したから」と福留は語る。
「心の中に、まだまだ若い選手には負けない、という思いを強く持っていたこと、マイナーを経験したことで、やめるのはいつでもできる、という思いが芽生えたこと、とことんやってやろう、と強く思えたことが45歳まで続けられた理由だと思います」
アメリカでの日々も、すでに遠い思い出になりつつある。悪戦奮闘した5年間を、福留はどのように振り返るのか?
「まったく知らないものを経験した5年間でした。自分が望まなければ見られなかったものばかりでした。野球選手としてというよりも、人間として他人に感謝できるようになったし、周りが見えるようにしてもらった。そんな5年間だったと思います」
かつての自分にはメジャーリーグへの憧れはなく、自然な流れでアメリカでの生活を選んだ。自分の決断を後悔しているわけではないが、「もしも小さい頃からアメリカを目指していたら……」と考えることもあるという。
後輩たちに対しては「中途半端な思いなら行かないほうがいい」と言いつつ、「強い憧れがあるのならば行ったほうがいい」とエールを送る。
「なりたい自分のイメージを強く持っているのならば行ったほうがいい。そこには必ず、何かがあるはずだから……」
【福留孝介】
1977年、鹿児島県生まれ。1999年ドラフト1位で中日に入団。’07年12月カブスへ移籍。’11年7月インディアンス、’12年、ホワイトソックスへ。同年途中ヤンキースとマイナー契約。’13年、阪神、’21年、中日に復帰。’22年、現役引退
撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社
【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
―[サムライの言球]―
◆地元ファンからも愛される上々のスタートを切ったが…
カブスでのメジャー1年目となった’08(平成20)年は150試合に出場して、打率257、10本塁打、58打点に終わった。開幕戦は初打席初ヒット、さらには初ホームランも放った。チームは好調で、オールスターにはファン投票で選ばれた。
この頃、本拠地であるリグレー・フィールドでは「偶然だぞ」と記されたボードを掲げる地元ファンの姿があった。
「ライトを守っていたら、ファンの人が“偶然だぞ”ってボードを掲げているから、すぐに通訳に尋ねましたよ(笑)」
カブスファンが好んで使う「It’s gonna happen」(「何かが起こるぞ」「ついにそのときが来た」)をネット翻訳した直訳がこのフレーズだったのだ。
「守備に就いているときには多くのファンが《偶然だぞ》って掲げているから、それを見ながらずっと笑っていました」
◆変化を恐れず臨機応変に対応した2年目
熱狂的な地元ファンからも愛される上々のスタートを切った。しかし、夏場に差しかかると成績は下降する。ルー・ピネラ監督の「試合前にはハードな練習をするな」という方針もあって、日本で行っていたような練習ができず万全のコンディションがキープできなかったのだ。
「1年目は日本でやってきたスタイルのままプレーしたけど、結果が出なかった。だから2年目はステップの仕方、タイミングの取り方、トレーニング方法も変えました」
自分を信じブレずに信念を貫くこと。その一方で固定観念に固執せず、変化を恐れず臨機応変に対応すること。福留にとって、前者が1年目であり後者が2年目だった。
「手元でボールに差し込まれないよう足を上げずにスライドステップやノーステップを試みました。ボールの反発に負けないようにバット材は日本産のアオダモからカナダ産のメイプルに替えました」
他人から見ればわずかな差であっても、当事者にとっては「なかなかアジャストできない」大差であった。
「郷に入れば郷に従えじゃないけど、いつまでも日本でのやり方にこだわっていてもストレスを溜めるだけですから、『そういうものなんだ』と割り切るようにしていました」
◆妻からは「性格が丸くなった」
自分の意思で変えられないことに対していつまでも抗っていても意味はない。ある意味での達観が重要になるのかもしれない。渡米後、福留は「性格が丸くなった」と妻に言われたという。「自分では丸くなったという自覚はないんですけど」と福留は笑った。
「日本にいるときはある程度のことは自分一人でできました。でもアメリカでは通訳や練習パートナーもそうだし、周りのサポートがなければ何もできない。日本での当たり前がアメリカでは通用しない。そんなことに気づかされました」
アメリカでの2年目、3年目も、日本のような成績を残すことはできなかった。春先は成績がいいのに、夏場になるとベンチを温める試合が増えていく。与えられた環境のもとで自分にできることは精いっぱい取り組んだ。それでも結果が出ないままカブスでの4年契約の最終年を迎えた。
◆メジャー4年目、自らの意思で決めた移籍
しかしシーズン途中、自らの意思でクリーブランド・インディアンスに移籍を決める。
「試合に出る機会が少しでも欲しい。そんな思いから自分で判断しました。そして、その年のオフに(シカゴ・)ホワイトソックスと契約したものの故障もあって、思うような成績を残せませんでした……」
4年目終了後に日本球界へ復帰することも可能だった。しかし、本人がそれを拒んだ。
「日本に戻るという選択肢は自分の中にはなかったですね。ホワイトソックスでは脇腹を故障して、シーズン途中にリリースされてしまいました。それでも、まだ日本に戻るつもりはありませんでした」
シカゴに家を購入し、グリーンカードも取得した。それは、腰を据えて挑戦する覚悟の表れでもあった。
◆「もっと若い頃に…」35歳で経験したマイナー生活
渡米5年目の’12年7月、福留はヤンキースとマイナー契約を結んだ。3A・スクラントンでのプレーは、すでに35歳になっていた福留にとって、何から何まで初めて経験することばかりだった。
「10時間以上のバス移動も経験しました。飛行機はもちろんチャーター機ではなく、試合直前に球場入りすることもありました。彼らはみんなハングリーで同じ国出身のメジャーリーガーから道具をもらってプレーしていました。あのときの経験は二度としたくはないけど、もちろん挫折だとも思っていません。もっと若い頃にあの経験をしたかった。そんな思いが強いですね」
日本でトップスターだった福留にとって、35歳で経験するマイナー生活は、単なる「選手として」ではなく、「一人の人間として」はとても貴重な経験となったという。
「若い選手たちはみんな貪欲でした。誰からでも学ぼうとしていました。道具の件もそうだけど、日本では経験することができないことばかりでした。もう少し僕が若ければ、本当にいい経験になったと思います。でも、僕はこのときすでに35歳でした……」
胸の内には「自分はこんなことをするためにここに来たわけではない」という思い。5年間のアメリカ生活も終焉が近づいていた。
「この頃、日本でもう一度チャンスがあるのならばトライしてみたい、という思いが芽生えてきました」
◆45歳まで現役を続けられたのは「アメリカ野球を経験したから」
こうして、翌’13年からの日本球界復帰が決まった。新天地は阪神タイガースだった。以来、福留は’20年までの8年間、さらに’21年からの2年間は古巣のドラゴンズに復帰し、’22年限りで24年間の現役生活にピリオドを打った。
36歳で日本球界復帰を果たしてから、45歳まで現役を続けることができたのは、「アメリカ野球を経験したから」と福留は語る。
「心の中に、まだまだ若い選手には負けない、という思いを強く持っていたこと、マイナーを経験したことで、やめるのはいつでもできる、という思いが芽生えたこと、とことんやってやろう、と強く思えたことが45歳まで続けられた理由だと思います」
アメリカでの日々も、すでに遠い思い出になりつつある。悪戦奮闘した5年間を、福留はどのように振り返るのか?
「まったく知らないものを経験した5年間でした。自分が望まなければ見られなかったものばかりでした。野球選手としてというよりも、人間として他人に感謝できるようになったし、周りが見えるようにしてもらった。そんな5年間だったと思います」
かつての自分にはメジャーリーグへの憧れはなく、自然な流れでアメリカでの生活を選んだ。自分の決断を後悔しているわけではないが、「もしも小さい頃からアメリカを目指していたら……」と考えることもあるという。
後輩たちに対しては「中途半端な思いなら行かないほうがいい」と言いつつ、「強い憧れがあるのならば行ったほうがいい」とエールを送る。
「なりたい自分のイメージを強く持っているのならば行ったほうがいい。そこには必ず、何かがあるはずだから……」
【福留孝介】
1977年、鹿児島県生まれ。1999年ドラフト1位で中日に入団。’07年12月カブスへ移籍。’11年7月インディアンス、’12年、ホワイトソックスへ。同年途中ヤンキースとマイナー契約。’13年、阪神、’21年、中日に復帰。’22年、現役引退
撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社
【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数
―[サムライの言球]―