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「若いってことに価値はない」北野武が語る“生きづらさ”をぶち破る方法

日刊SPA! 2024年4月1日 8時51分

 北野武(77)が、この生きにくい時代を生き抜くために考えることは「他人からの評価を期待しないってところが大事で、自分がこれをやろうって決めたことに向かってコツコツ少しずつやっていく」と語る。その理由の一端を、1月30日に上梓した『人生に期待するな』から抜粋してお届けする。
◆相手の話をちゃんと聞く

 法律が変わって選挙権が18歳からになったけど、年齢でなんでも決めていいのかってことがある。70歳過ぎても選挙権がないヤツがいてもいいだろう。30歳を超えても子どもみたいなヤツはたくさんいるし、13歳の中学生でもしっかりしたヤツはいる。バカはやっぱりバカだもの。30歳を超えてもバカなヤツより、15歳で働いて家に仕送りしてるような少年少女に選挙権を持たせるほうがよっぽどいいね。

 年齢が違いすぎるから話が合わないなんてよく言うけど、それも話が合わないんじゃなくて、話を引き出せない自分を恥ずかしく思うべきだ。年寄りとお茶を飲んでいて「おばあちゃん、このお茶はなんて名前?」って聞けば何かしら教えてくれる。

 同じように、会話をしようとか、相手に対する好奇心があれば、すごくためになる話を聞けることだってある。聞かれた相手は気持ちいいし、こっちはそれまで知らなかったことを知ることができる。これは相手が小学生だって同じだ。

 料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったら車のこと、坊さんに会ったらあの世のこと、何でも知ったかぶりせずに、素直な気持ちで聞いてみるといいね。そうすれば自分の世界が広がるし、その場も楽しくなる。たとえ知っていたとしても、ちゃんと聞くって態度が大切なんだよ。

 相手の話をちゃんと聞くっていうのは、他人への気遣いで最も大切なことだと思う。だけど、人間ってのは、年を取ると相手の話をちゃんと聞くことが苦手になる。逆に、自分の自慢話ばかりしたがるようになるんだけど、自慢話は一文の得にもならないし、その場の雰囲気を悪くする。それよりも、相手の話を聞くほうがずっといい。

◆若いってことにあまり価値はない

 よく昔から、年寄りが「今の若いもんはしょうがない」なんて言うんだけど、そんなことを言う年寄りってのは天に唾するようなもんだ。だって、若いもんが礼儀がなくて作法を学ばないのは、手本になる大人がいないからだもん。

 少なくとも作法っていうのは、「あの人はかっこいいな」っていう大人への憧れだったり、「あのときのあの人はかっこよかったな」なんていう記憶によって作られる。身近にそんなかっこいい大人がいたら、強制なんかされなくたって自然に真似したくなるもんだ。鮨の食い方にしても酒の飲み方にしても、そうやってかっこいい大人の真似をして礼儀作法を覚えたもんだ。だから、年寄りが「今の若いもんは……」ってグチるのは、あんまりみっともいいもんじゃないね。

 あと、よく「若い人はいいな」なんていって、若いこと、若さがあたかも重要なことのように言うけど、若い人ってのは果たして偉いのかといつも思う。単に年を取ってないだけじゃないか。

 ひところ、「女子大生」がブランド化して、なんでもかんでも女子大生に受ければいいっていう風潮があったんだよ。だから漫才師のプロダクションが女子大生を集めてキャーキャー言わせて人気があるように見せかけたりして。オイラそれ見てもうイヤんなっちゃって。いかに女子大生に嫌われるかってなもんで、散々悪口を言ってたんだよ。そのころ、女子大生に人気があるとかいって浮かれてた芸人はみんないなくなったんで、ざまあみろって思ってる。

 ただ、年を取るってのは嫌なもんだけど仕方ない。誰だって1年にひとつ年を取るし、誰だっていつかは必ず死ぬ。ただ、年を取ると若いころよりも反応が鈍くなるし、漫才でいえばアドリブが効かなくなる。

 昔は舞台に立っていてもテレビに出ていても、このネタには今のタイミングではこれってピンとくるものがあった。反応の素早さ、間、タイミング、ぴったりの言葉、こういうのがどんどん出てきた。頭で考える前に口が自然にしゃべってるんだよね。それを年のせいにするわけじゃないけど、できなくなってるんだからしょうがない。

 じゃあどうするかっていうと、誰に評価されるわけでもないことを毎日少しずつコツコツと積み重ねるって方向に向かうわけだ。アドリブの瞬発力より、コツコツとした持久力みたいなもんで、最近じゃ、ピアノを弾いたり、絵を描いたり、小説を書いたりってことが楽しくなってきた。

 これは他人からの評価を期待しないってところが大事で、自分がこれをやろうって決めたことに向かってコツコツ少しずつやっていく。これは今の生きにくい時代を生き抜いていくための一つの方法かもしれないね。

◆人生100年時代、定年後はどうやって生きていけばいいのか

 よく「定年後に備えて趣味を持て」なんて言うよな。だけど、あれは嘘なんだよ。その趣味がいかにおもしろいかということを知るには、さすがに定年後だと遅すぎる。

 だって、本当の趣味というのは、会社勤めなんかをしている間に「親が急病で」なんて会社に嘘をついてまでしてゴルフや釣りなんかをすることなんだから。そうまでしてやるのが趣味なんで、定年後に何か趣味でも始めようかといったって絶対に続かないよ。

 親族の葬式だって嘘を言って仕事をサボって陶芸をして、できた焼き物を香典返しだって上司に渡すくらいずうずうしいことをしないと趣味なんて見つからないんだよ。時間が足りない中で、なんとか趣味の時間を捻出するくらいじゃないとダメなんだ。

 ただ、仕事が趣味という人がよくいるけど、あれは仕事が趣味というより人間関係が趣味なんだろうね。新橋の飲み屋街に行くと、仕事帰りのサラリーマンが楽しそうに飲んでたりする。違う会社の人間同士が飲んでたり、定年後も新橋で待ち合わせして一緒に飲んだりしているんだ。

 それは仕事仲間でもないわけで、仕事帰りにたまたま同じ飲み屋で会っているような人間関係の雰囲気が好きなんだね。映画の照明さんにも現場の雰囲気の好きな人がいる。定年で仕事をやめても、同じように自分が過ごせる場所という環境づくりが大事なんじゃないかな。あとは、自分でそうした場所を開拓することだね。

◆今を生きる

 オイラ、大きなバイク事故を起こしたことがあったんだけど、その後、病院で目が覚めるのが嫌だったんだよ。事故って入院するまでの記憶がないんだから、もしかしたらオイラ、死んでるんじゃないかって思ってね。

 でも目が覚めると、オイラ、生きてるんだって思ったんだけど、退院してから自宅で朝、起きるときも、目が覚めたらまだ病院だったら嫌だな、なんてことを思ったりもしてた。だから、薄目を開けながら起きたりしてたんだ。

 ゴルフをやっていいスコアを出したときも、あれ? これって病院で見てる夢なんじゃねえかって思ったりね。

 パラレルワールドってのがあるんだけど、これは無限の数の宇宙があるという話で、今の現のオイラと、片っぽでは死んでたり、片っぽでは浅草でまだ漫才をしてたりという別のオイラがいるんじゃないかと思ったりする。

 ただ、実感があるのは今なので、あんまり気にしないようにしてる。楽しく生きるって考え方はずうずうしいことだと思ってる。生きていくことは苦しいことで、おまけとして楽しいことがたまにある。

 ただ、普通に生活している中で苦しいなんていちいち思ってないけどね。どうも、楽しく生きるってのは実感がないんだ。一番楽しいのはくたばるときだと思ってる。

 死ぬときが一番楽しいのかもわかんないね。この世に生まれて生きているってことは、かなり苦痛だし、罰のようなもんだと思ってる。だから「いつでもくたばってやるぜ」って思っているからね。

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