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「絶対にアメリカに行ったほうがいい」岡島秀樹がメジャー行きを意識した“新庄剛志の言葉”

日刊SPA! 2024年5月8日 15時51分

 もともとメジャーリーグには何も興味がなく、ジャイアンツひと筋で現役生活を終えるつもりだった。しかし、プロ13年目の開幕直前に決まった北海道日本ハムファイターズへの電撃トレードが岡島秀樹の人生を変えた。
 そして、’07年から、彼はメジャーリーガーとなった。「ボストンがどこにあるのかも知らなかった」と語る岡島は、1年目から中継ぎ陣の中心として活躍。ワールドチャンピオンに輝き、チャンピオンリングも手に入れた。

 ふとしたきっかけから運命が激変し、「野球人生の最後はアメリカで迎えたい」と考えるまでになった彼のアメリカでの日々を振り返りたい――。

◆FAの権利を捨ててでも残りたいチームから移籍を告げられた

 1993年秋、読売ジャイアンツからドラフト3位で指名された。桑田真澄、槙原寛己、そして斎藤雅樹の3本柱を擁する豪華投手陣の中で岡島のプロ野球人生は始まった。プロ6年目となる1999年に中継ぎに転向すると、めきめきと頭角を現し、貴重な左腕としてチームに欠かせない存在となる。

 しかし、’06年の開幕直前、岡島は北海道日本ハムファイターズへのトレードを命じられた。青天の霹靂だった。

「あと数か月でFAの権利を取得できる時期でしたけど、チームには愛着がありましたからジャイアンツに残るつもりでした。なのに、FAの権利を捨ててでも残りたいチームから移籍を告げられた。それはやっぱりショックでした」

◆トレイ・ヒルマン監督、新庄剛志氏との出会い

 しかし、ファイターズでの出会いが岡島を変えた。きっかけをもたらしてくれたのはトレイ・ヒルマン監督と、この年限りでの引退を事前に表明していた新庄剛志だった。

「ヒルマン監督はいつも、『家族は元気か?』とあいさつしてくれました。東京に残してきた僕の家族のことを気にかけてくれていたんです」

 コンディションについて尋ねられたことは一度もなかった。いつも家族のことばかり尋ねられるのが不思議だった。

「それで通訳さんに聞いたら、『それがアメリカンスタイルだ』と言われました。このとき初めて、アメリカっていいな、って思ったんです」

 一方の新庄は、「岡島のフォームは個性が強いから、絶対にアメリカで通用するよ」と熱心に語り続けたという。リリースの瞬間に顔を下に向け、ホームベース方向を見ずに投げる独特の投球フォームを新庄は絶賛したのだ。

「新庄さんからは、『この投げ方なら、必ず通用するから、絶対にアメリカに行ったほうがいい。すぐに行け!』って何度も言われました(笑)」

◆真っ先に連絡が来たのはボストン・レッドソックス

 家族を気遣うヒルマンのスタイル。そして、メジャー経験を持つ新庄の言葉。少しずつ、岡島の胸の内にメジャーリーグの存在が大きくなっていく。しかし、それはまだ曖昧模糊としたものだったが、やがて現実味を帯びてくる。

 移籍1年目となる’06年、ファイターズは北海道移転後初となるリーグ制覇、そして日本一に輝いた。左のセットアッパーとして、岡島もチームに貢献した。そして、この年のオフ、満を持してFA宣言をした。国内外を問わず、自分の評価が聞きたかった。

「真っ先に連絡が来たのはボストン・レッドソックスでした。エージェントによると、条件もそんなに悪くないということだったので、家族に相談せず、独断で決めました」

 それまで、まったくメジャーリーグに関心はなかった。かつてのチームメイトの松井秀喜がニューヨーク・ヤンキースで活躍する姿をスポーツニュースで見る程度だった。

 しばらくすると、期せずして松坂大輔のレッドソックス入りが決まった。世間の注目は松坂に集まっていた。

「松坂君は大スターですから、彼が表のヒーローなら、僕は陰のヒーローでいい。だから、メディアではいつも『僕は松坂君のシャドウ(影)です』と答えていました(笑)」

 表のヒーローと陰のヒーローが同時に海を渡る。

 ’07年、いよいよメジャーリーガーとしての日々が始まろうとしていた――。

◆渡米後、短期間で新魔球を習得

 日本からアメリカに渡ったピッチャーのほとんどが、「滑るボール」と「硬いマウンド」に悩まされる。しかし、幸いなことに岡島の場合は、いずれも難なくクリアする。

「ボールは確かに滑りました。日本で投げていたカーブが抜けてしまってコントロールが定まらない。だから思い切ってカーブは見せ球にして、新たにチェンジアップをマスターすることにしました」

 日本で決め球にしていたカーブをあえて捨てる。それは、新天地で成功するために覚悟を決めた瞬間だった。

 スプリングキャンプ直前、岡島はミネソタ・ツインズに在籍していたヨハン・サンタナに会いに行く。’04、’06年にサイ・ヤング賞を獲得したMLBを代表するサウスポーだ。

「たまたま彼も、僕と同じエージェントのクライアントだったので、そのツテをたどってチェンジアップを教わりに行きました。ものすごく気さくに教えてくれましたよ。僕の投球映像を見てもらったら、『日本でスプリットは投げていたのか?』と尋ねられたので、『イエス』と答えると、『これだけオーバースローなら絶対にチェンジアップも投げられる』と言ってもらいました」

 日本では桑田真澄からチェンジアップを教わったものの、ものにすることはできなかった。しかし、このときサンタナから伝授されたのはすべての縫い目(シーム)に指をかける新しい握り方だった。

「すべてのシームに指をかけるから滑らないんです。グリップはしっかり固定して、指を少しずらせばシュート回転しながら落ちたり、真っすぐ落ちたりと自由自在でした」

◆魔球「スプリットチェンジ」の誕生

 キャンプ前にすでに、岡島は「スプリットチェンジ」と命名する新球をマスターすることに成功した。メジャー特有の硬いマウンドに対しても、柔軟な対応力を発揮する。

「ジャイアンツ時代、いつも桑田さんと一緒にオーストラリアでトレーニングしていました。僕らが練習する球場は整備が行き届いていなくて、マウンドもカッチカチでした」

 このとき桑田からは「このマウンドで投げられれば、メジャーでも問題ないよ」とアドバイスされたという。

「その経験があったから、メジャーのマウンドもオーストラリアのマウンドと比べればはるかに投げやすかったです」

◆「このボールは絶対に通用する」と太鼓判

 こうして、岡島は緊張感とともにレッドソックスのスプリングキャンプに臨んだ。「自分は通用するのか?」という不安もあった。しかし、その思いは一瞬にして氷解する。きっかけをくれたのはキャプテンであり、女房役でもあるジェイソン・バリテックだ。

「キャンプ中にブルペンで投げたときに、バリテックから『このボールは絶対に通用する』と太鼓判をもらいました。さらに、『このボールはオープン戦の間は絶対に投げるな』と念を押されました」

 バリテックの念頭にあったのは、開幕早々の4月に予定されているヤンキース戦だった。同地区で戦う宿命のライバルであるヤンキースを倒さなければ、リーグ優勝も、ワールドチャンピオンもない。

「バリテックはヤンキース戦を見据えて、あえてスプリットチェンジを封印したんです。そして、『オープン戦では打たれても構わないから』と言ってもらいました。この言葉はとても力強かったですね」

 メジャーを代表する名捕手からのお墨付きは自信となった。こうして’07年シーズンが幕を開けた。カンザスシティ・ロイヤルズとの開幕戦、いきなり岡島の出番が訪れる。それはまったく予期していなかった波乱のデビューとなった――。

【岡島秀樹】
1975年、京都府生まれ。1994年、ドラフト3位で巨人に入団。’06年、日本ハムへトレード。’07年、レッドソックスへFA移籍。’12年、ソフトバンク、’13年、アスレチックスでメジャー復帰。’14年、ソフトバンク、’15年、DeNA。’16年、引退

撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社

【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

―[サムライの言球]―

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