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元チームメイト・松井秀喜とメジャーで対決。岡島秀樹が回顧「松井さんと対戦するのはイヤでした」

日刊SPA! 2024年5月9日 15時51分

「アメリカに行くことなんて少しも考えていなかった」と言う岡島秀樹は、トレイ・ヒルマン、新庄剛志の勧めによって海を渡る覚悟を決めた。そして、渡米直後に新球「スプリットチェンジ」をマスターし、ついにメジャーのマウンドに立つ。初陣は開幕戦、大差がついて、気楽に投げられる場面である。しかし、そのデビュー戦で……。 
 5年間在籍したボストン・レッドソックスを皮切りにメジャー3球団を経験したアメリカでの日々に迫る――。

◆メジャー初登場、初球でホームランを打たれてしまう

 ’07年、岡島秀樹は開幕戦、カンザスシティ・ロイヤルズ戦のマウンドに立っていた。いきなりのデビューは、同期入団の松坂大輔よりも早かった。打席には8番のジョン・バック。下位打線とはいえ、油断は禁物だ。当たっても長打にはならない外角低めを目がけて慎重に投じた。記念すべきメジャー第1球だった。

「確かに緊張はしていたけど、狙っていた通りのコースに投げることができました。それをいきなりですからね……」

 バックの放った打球は右中間スタンドに飛び込んだ。初球をいきなり被弾したのだ。

「もちろんヘコみましたよ(苦笑)。油断したつもりはないけど、まさか初球からホームランはないだろう、と相手を甘く見ていたのかもしれないですね。8番バッターに外角低めを逆方向にホームランを打たれるんですから、日本での常識は通用しないことをすぐに悟りました」

 屈辱的なデビューとなった。しかし、本人の言葉にあるように、デビュー早々に「日本での常識は通用しないのだ」と考えを改めることができたのは不幸中の幸いであった。

「あまりにも悔しかったので、その日の夜は寝られませんでした。ノートにホームベースの絵を描いて、どうすれば打ち取れるのか、いろいろボールの軌道を考えていました」

 その成果もあり、開幕戦以降の岡島は結果を残した。中継ぎで登板し、19試合連続無失点を記録する。この年、レッドソックスのリリーフ防御率がリーグトップとなったのは、セットアッパーの岡島とクローザーのジョナサン・パペルボンの両輪が大活躍したからである。

◆メジャー初セーブを記録。チームメイトの信頼を勝ち取る

 パペルボンが休養した4月23日には、クローザー役を託され、メジャー初セーブを挙げた。相手は宿命のライバル、ニューヨーク・ヤンキースだ。

「それまでずっと投げていなかったスプリットチェンジもヤンキース戦で披露しました。初めて見るボールに相手も驚いたと思います。この初セーブをきっかけに、チームメイトたちの僕を見る目がガラリと変わった気がします」

 それまでは軽くあいさつをする間柄だったものが、相手から声をかけられる機会が増えた。あるいは、覚えたばかりの日本語で話しかけられるようにもなった。岡島は自らの実力で、名門・レッドソックスの一員となったのである。

「キャプテンの(ジェイソン・)バリテックは何度も食事に誘ってくれたし、(デビッド・)オルティーズは同学年なので家族ぐるみのつき合いでした。そしてマニー(・ラミレス)は親日家でものすごくウエルカムな人柄でしたね」

◆元同僚・松井秀喜との対決、ワールドチャンピオンへと導く

 6月1日には、同じくヤンキース戦でメジャー初勝利をマークした。もはやチームに欠かせない存在となっていた。

「もともと、メジャーリーグの知識がほとんどなかったので、レッドソックスとヤンキースとの関係も、巨人と阪神のようなものなのだろうな、と理解していたんですけど、実際はファンだけでなく、選手も首脳陣も、ヤンキースに対するライバル意識は、僕の想像以上のものでした。『絶対にヤンキースには勝たなくちゃいけないんだ』というのは、早い時期から実感することができましたね」

 ジョニー・デイモン、デレク・ジーター、アレックス・ロドリゲス、ジェイソン・ジアンビー、そして松井秀喜。当時のヤンキースは強打者揃いだった。

「他の選手はまだいいんですけど、松井さんと対戦するのはイヤでしたね。ジャイアンツ時代に勝負強さを間近で見ていましたから。目も合わせたくないほどだったので、ほとんど外角に投げてフォアボールばかりでした(笑)」

◆外国人であるという疎外感はなかった

 渡米初年度となった’07年、レッドソックスはヤンキースを撃破した。さらにリーグチャンピオンシップシリーズ、そしてワールドシリーズを制覇してチャンピオンに輝いた。

「メジャーでの優勝が、僕の野球人生にとって最大の出来事でした。改めて『勝たなきゃ意味がない』『2位じゃダメなんだ』と痛感しました」

 ’07年の66試合を皮切りに、それ以降も64、68、56試合と、完全に中継ぎ陣の屋台骨を支える活躍を見せた。

 しかし、レッドソックスと再契約を結んだ’11年はオープン戦での不振が響き、渡米以来初めて、開幕一軍枠から外れてしまった。4月にすぐにメジャー復帰したものの、チームは他球団からトレードで投手を獲得。岡島の出番は急激に減ってしまったのだ。

「この年はマイナー暮らしが続き、シーズンオフにレッドソックスを離れることになりました。でも、すぐにヤンキースとマイナー契約を結ぶことができ、『まだアメリカで投げられる』と希望を抱いて、’12年を迎えたんですけど……」

 ’12年のキャンプイン直前、岡島のもとに信じられない通知が届いた。メディカルチェックの結果、「あなたの肩には異常があるので、契約はできない」と告げられたのだ。

「本当に驚きました。何も痛みはなかったからです。それでも、医師の言うことは絶対なのでいくら言ってもダメでした。このときが、野球人生最大のショックでした」

◆野球人生の最後はアメリカで迎えたい

 途方に暮れていた岡島に救いの手を差し伸べたのが福岡ソフトバンクホークスだ。

「1年だけ日本球界に復帰したけど、僕の中には『絶対にヤンキースを見返してやる』という思いしかありませんでした。それで、’13年にオークランド(・アスレチックス)でプレーする選択をしました」

 アスレチックスではマイナー生活が続いたが、5月にメジャー昇格した際に、ヤンキースとの対戦が実現した。

「結果的に(ロビンソン・)カノには打たれたけど、『オレはまだ投げられるんだ』ということを証明できたので、自分の目標はクリアできました」

 すでに37歳となっていた。この年限りでアスレチックスからリリースされると、翌’14年は再びホークスに。そして’15年は横浜DeNAベイスターズに移籍した。

「’15年は肩やヒジではなく、脚の故障で満足に投げることができないまま戦力外通告を受けてしまいました」
 
 40歳直前での戦力外通告。誰もが「岡島は引退するだろう」と考えていた。しかし。

「僕の気持ちとしては、『野球人生の最後はアメリカで迎えたい』という思いが強くありました。だから、もう一度挑戦することにしたんです」

 40歳で迎えた’16年シーズンはボルティモア・オリオールズとマイナー契約を結んだが、開幕前に戦力外となった。希望通り、野球人生の終焉の地はアメリカとなった。完全燃焼だった。改めてアメリカで過ごした日々を振り返った。

「レッドソックスでは一度も外国人である疎外感を覚えたことはなかったです。人種や育ってきた環境が違っても、『勝つためにはみんなで助け合わなければいけない』という共通の思いがあったから。本当にいいチームでプレーできたことが最大の誇りです」

 すべてをやり切った者だけが手に入れることのできる満足感と爽快感を滲ませて岡島は言い切った──。

【岡島秀樹】
1975年、京都府生まれ。1994年、ドラフト3位で巨人に入団。’06年、日本ハムへトレード。’07年、レッドソックスへFA移籍。’12年、ソフトバンク、’13年、アスレチックスでメジャー復帰。’14年、ソフトバンク、’15年、DeNA。’16年、引退

撮影/ヤナガワゴーッ! 写真/時事通信社

【長谷川晶一】
1970年、東京都生まれ。出版社勤務を経てノンフィクションライターに。著書に『詰むや、詰まざるや〜森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)、『中野ブロードウェイ物語』(亜紀書房)など多数

―[サムライの言球]―

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