Infoseek 楽天

「お風呂の中でスピーチを練習」逆境を乗り越えた偉人たちの勉強法とは?

日刊SPA! 2024年6月8日 8時52分

どうしてこうもうまくいかないのか——。仕事においても私生活においても、思いどおりにいかずに悔しい思いをすることがあるだろう。しかし、そんなときこそ、前に進むチャンスかもしれない。名立たる偉人たちはヤバいときにこそ、それを学びに変えて、飛躍のチャンスにつなげている。
拙著『ヤバすぎる!偉人の勉強やり方図鑑』から、逆境からチャンスをつかんだ偉人たちを紹介する。落ち込んだときは、ぜひ参考にしてみてほしい。

◆実はスピーチが苦手だったチャーチル

イギリスの名宰相チャーチルは、演説に多くの技巧を用いて国民を盛り上げ、第二次世界大戦で強烈なリーダーシップを発揮したことで知られています。

ドイツのソ連侵攻後の下院演説では、「絶対に、絶対に、絶対にあきらめるな」と、力強いメッセージをストレートに伝えました。また、冷戦時代のヨーロッパにおける東西両陣営の緊張状態を、「鉄のカーテン」と巧みにたとえて、世界的に注目を集めることになりました。

スピーチでチャーチルが重視したのは「言葉がどう響くか」ということ。チャーチルの演説で、名スピーチと呼ばれるものの多くは、言葉のリズムを重視した、リフレイン(反復)を多用したものです。
例えば、大戦中、ナチスからの撤退作戦を完了させるときは「我々は、海岸で戦う。敵の上陸地点で戦う。野戦や市街で戦う。丘陵で戦う。我々は、断じて降伏しない」と、文と文と間の接続詞を省略。言葉にリズムをつけることで、撤退に安心する国民の気を引き締め、さらなる戦いへと目を向けさせています。

しかし、そんなチャーチルは、最初から話がうまかったわけではありません。あるときは、みなの前に話している途中に、言葉につまってしまい、3分間も沈黙。両手で頭を覆うと「ご清聴、感謝します」とだけ言って、そのままスピーチを終了してしまったことがありました。

その失敗以来、チャーチルは、スピーチの内容を頭に叩き込むようになりました。完成原稿を常に持ち歩き、お風呂の中でも練習していたそうです。

苦手なことはつい逃げがちですが、改善点は明白なわけですから、取り組み方によっては、伸び代が一番あるところのはず。チャーチルは、苦手だからこそ上達できるように努力し、弱点をむしろ長所に変えてしまったのでした。

【こぼれ話】
「最も偉大なイギリス人」ともいわれるチャーチルですが、学生時代は劣等生そのもの。政治家の父は、息子の学校成績を見て、後を継がせるのをあきらめたくらいです。
そんなチャーチルが夢中になったのが、おもちゃの兵隊遊び。1500体もの兵隊人形をコレクションしていました。
父が「軍人になりたいか?」と問いかけると、チャーチルは「なりたいです」と回答。陸軍士官学校に進学することになりました。チャーチルはこう振り返っています。

「おもちゃの兵隊が私の将来を決めた」

息子がこんなに出世するとは、お父さんも驚いたことでしょう。

【名言】
「成功とは、失敗を重ねても、やる気を失わないでいられる才能である」

◆生死をさまよう重傷を負ったことで画家の道へ(フリーダ・カーロ)

人生のどん底でも、学ぼうとした女性がいます。メキシコの画家フリーダ・カーロです。6歳でポリオを発症したフリーダは、9カ月もの間、病院の外に出ることができず、後遺症も残りました。

それでも勉強が得意だったため、フリーダはメキシコ市屈指のエリート校である国立予科高等学校に入学。学校では刺激的な仲間に囲まれて、フリーダの目も外に向けられたようです。「とうとう足のことを忘れてしまった」というほど、充実した学生生活を送っています。

ところが、そんな矢先にフリーダは悲劇に見舞われることになります。フリーダの乗るバスが、路面電車と正面衝突してしまったのです。フリーダは何カ所も骨折するという大けがを負いました。それは、お医者さんが「もう生きられないかもしれない」と考えるほどの重傷でした。

「呼吸が苦しく、肺と背中全体が痛みます。足を動かすことも歩くこともできません」

そう嘆くフリーダのために、母は病院のベッドを改造。ベッドに横たわると、上の鏡で自分の姿が観られるようにしました。

「こんなときに自分の姿なんて見たくないよ……」

最初は、そう戸惑ったフリーダでしたが、寝転がって自分の顔を見つめているうちに「絵を描きたい!」という思いがむくむくと湧いてきました。父に絵の具を買ってきてもらうと、フリーダは自分の顔、つまり、自画像を描き始めます。そして、自分の自画像が出来上がると、今度は家族の顔を描き始めました。

食べるのも忘れて描き続けたフリーダ。まさか、自分が画家になるとは、想像していなかったことでしょう。

フリーダは絵を描くことで、ただ痛みに苦しむことだけの日々から、抜け出そうとしたのかもしれません。何かを学び、身につけることは、私たちにいつも「生きがい」を与えてくれるのです。

【こぼれ話】
生死をさまようほどの事故の後、フリーダは22才のときに、44才のディエゴ・リベラと結婚します。フリーダがディエゴに絵のアドバイスをもらったのが、出会いのきっかけといわれています。リベラは「尋常でない表現のエネルギーを感じた」とフリーダの作品を評価し、フリーダもまたディエゴを尊敬していました。

ただ、お互いに強烈な個性があるがゆえに、結婚生活は波乱に満ちたものでした。一度は別れを選んでいますが、再び結婚しています。互いに運命の相手だったのでしょうね。

【名言】
「たったひとつ、よいことがあります。それは苦痛になれ始めたことです」

◆テストの結果が散々で評論家になった坪内逍遥

明治18年、坪内逍遥が評論『小説神髄』を刊行して、小説の新しい方向を提唱すると、各方面で話題を呼ぶことになりました。

どんな点が支持されたかというと、江戸時代に流行した物語は「勧善懲悪」ものばかり。つまり、「善良な人や善い行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲らしめる」という内容が多かったのです。

そんななか、坪内は「もっと人間のありのままを描こう!」と写実主義を訴えました。さらに、「小説の目的は、何かを教え諭すことではない。ほかの芸術と同様に、人を楽しませるものだ」として、多くの人から共感されることになりました。

まさに小説に対する人々の価値観をがらりと変えたわけですが、そこには坪内自身の反省も込められていました。

大学時代、坪内は成績が悪く、特に英語のできがよくなくて、一度は落第してしまいます。そんなとき、試験でアメリカ人の教授から、「『ハムレット』に出て来る王妃のキャラクターを批評せよ」という問題がなされます。

そこで試験の答案で、坪内が道徳的な解釈をしたところ、悪い点をつけられてしまいます。そのことが悔しくて、図書館に通い、西洋文学の批評をむさぼり読んだところ、あることに気づきます。

「自分は文学について、江戸時代の伝統にすっかりとらわれていたんだ……」

これまでの思い込みを払拭することで、坪内は時代にあった新しい文学観を打ち出すことに成功します。

「聞かれたことがわからずに悔しい……」という後悔は、人を勉強へと駆り立てます。そう思うと、間違うことは何ら恐れるべきことではないことだと気づかされます。

坪内が実践したように、図書館通いから自分の世界を広げるというのは、今すぐにでも実践できる「視野の広げ方」ではないでしょうか。さあ、まずは実践からです。

【こぼれ話】
坪内逍遥の影響を受けて作家になったのが、幸田露伴です。露伴は北海道で電信技手として働いていましたが、18才で坪内が書いた『小説神髄』を読んで、衝撃を受けます。

「そうか、文学を職業にしてもいいんだ!」

20才のときに仕事を投げ出して、東京へ。作家を志すようになります。執筆活動を知られると、父からは「恥ずかしいことをするな」と叱られたそうです。そんなことがあるたびに露伴は『小説神髄』を引っ張り出して、気合を入れ直したことでしょう。

【坪内逍遥の名言】
「知識を与えるよりも感銘を与えよ。感銘せしむるよりも実践せしめよ」

 * * *
『ヤバすぎる!偉人の勉強やり方図鑑』では、好奇心が旺盛すぎる偉人たちのぶっとんだ勉強のやり方を100人分集めました。自分の目標を達成したり、夢を叶えたりするための第一歩として、ぜひ役立ててもらえればと思います。

<文/真山知幸>

【真山知幸】
伝記作家、偉人研究家、名言収集家。1979年兵庫県生まれ。同志社大学卒。業界誌編集長を経て、2020年に独立して執筆業に専念。『偉人名言迷言事典』『逃げまくった文豪たち』『10分で世界が広がる 15人の偉人のおはなし』『賢者に学ぶ、「心が折れない」生き方』など著作多数。『ざんねんな偉人伝』『ざんねんな歴史人物』は累計20万部を突破し、ベストセラーとなっている。名古屋外国語大学現代国際学特殊講義、宮崎大学公開講座などで講師活動も行う。最新刊は『「神回答」大全 人生のピンチを乗り切る著名人の最強アンサー100』。

この記事の関連ニュース