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「巨人で死ぬ」引退を決意した広岡達朗に昭和の大人物が介在。後悔した“男の引き際”

日刊SPA! 2024年6月15日 15時52分

現役時には読売ジャイアンツで活躍、監督としてはヤクルトスワローズ、西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた広岡達朗。彼の80年にも及ぶ球歴をつぶさに追い、同じ時代を生きた選手たちの証言や本人談をまとめた総ページ数400の大作『92歳、広岡達朗の正体』が発売直後に重版となるなど注目を集めている。
巨人では“野球の神様”と呼ばれた川上哲治と衝突し、巨人を追われた。監督時代は選手を厳しく律する姿勢から“嫌われ者”と揶揄されたこともあった。大木のように何者にも屈しない一本気の性格はどこで、どのように形成されたのか。今なお彼を突き動かすものは何か。そして何より、我々野球ファンを惹きつける源泉は何か……。その球歴をつぶさに追い、今こそ広岡達朗という男の正体を考えてみたい。

(以下、『92歳、広岡達朗の正体』より一部編集の上抜粋)

◆川上哲治との確執が表面化した「長嶋ホームスチール事件」

1964年8月6日、蒸し暑い夜空の下、神宮球場の五つの照明灯が青白い光を強烈に放ってグラウンドを照らす。

巨人対国鉄二四回戦。巨人の先発は伊藤芳明、国鉄は〝天皇〟金田正一で始まったナイトゲーム。この日は、長身金田の速いテンポから繰り出すストレートがビュンビュン決まり、さらにブレーキ鋭いドロップがコーナーにギュンギュンと収まり、金田は六回まで巨人打線を完璧に抑えるピッチングを見せた。金田の完封ペースで〇対二とリードされた七回表、巨人はようやく反撃の糸口を手にし、一死三塁のチャンスを迎えた。三塁ランナーは長嶋。バッターは六番広岡。この場面、普通に考えたらヒッティングだ。

カウント2ストライクから三球目だった。金田がセットポジションから足を上げる瞬間、スタンドにいる観客がワーワーと騒ぎ出した。ランナーの長嶋がホームに突進し、足からスライディング。土煙のなかでキャッチャーミットと交錯する。

「アウト!」

球審の手が高らかに上がる。無謀とも言えるホームスチール。余裕のタッチアウトだ。

広岡は逆上した。身体中の血が沸騰し、バッティングどころじゃない。次の球を怒りに任せてフルスイングして空振り三振に倒れ、バットを地面に思い切り叩きつけて悔しがる。

三振で悔しがったのではない。この不可解な仕打ちに対して怒りをぶつけたのだ。2点差での七回一死三塁。外野フライでも1点、あたりが緩い内野ゴロでも1点になるケースで、ホームスチールなどありえない。

「よっぽど俺のバッティングが信用できないのか……」

屈辱に塗れた広岡は首脳陣を見向きもせず、そのままロッカーへと直行し、帰ってしまった。試合放棄だ。

広岡は家路に着く途中もカッカと煮えたぎっていた。監督の川上と長嶋だけがわかるサインを出したとしか思えない。二年前にも同じことがあった。同じ国鉄戦で延長一一回、二対一と 点リードされた場面の二死三塁でのホームスチール敢行。この場面はまだわかる。でも、〇対二で 点差で負けていて、七回一死三塁の場面ではまず考えられない。

「監督と長嶋の間だけのサインなんて、そんなのサインじゃない。怒るのは当たり前。長嶋は好い奴だからサイン通りやっただけ。後でどうなるなんて考えていないから。問題は川上さんよ。俺を嫌っているだけでなく、こんな仕打ちをするのかという怒りと苛立ちで、そのまま家に帰ってやったよ」

この事件により、広岡と長嶋の不仲が始まったと流布されているが、そんなのはデマ。ふたりの関係にはまったく支障がなかった。この事件により巨人内における広岡の立場が危うくなり、巨人史上稀に見る大問題へと発展していくのだった。

◆広岡達朗の引退宣言にあの正力松太郎が……

試合を放棄して家に帰ったものだから、球団内ではトレード話が再燃した。事件が起きた1964年シーズンは三位で終了。10月から秋のオープン戦が始まるが、メンバーに広岡の名前はなかった。その頃、報知新聞に川上監督のインタビュー記事が掲載され、広岡について「トレードに出すかは検討中。近日中に結論を出す」と発言したことで、各誌が一斉に広岡トレードを報じ始める。巨人軍内部で広岡が異端視されているのは周知の事実となった。

報道は過熱するが、広岡のもとに巨人からの連絡は一向に来ない。広岡はどこかで腹を括るしかないと考えていた。広岡の師である思想家の中村天風に、自分の思いの丈をすべて吐き出した。天風は目を瞑りながら微動だにせず話を聞き、何かを悟ったようにカァーッと目を見開き、こう言い放った。

「それなら巨人の広岡として死ね!」

天啓に打たれたようだった。大巨人の看板を支えてきた自負がありながらも、川上との確執による葛藤、懊悩、責苦が入り混じって心身とも疲弊していた広岡は、肩の荷が下りた気がした。背中を押された思いで、現役を退くことを決意する。

早速、巨人軍のオーナーである正力亨に電話をし、邸宅を訪ねた。単刀直入に引退する旨を告げると、亨は陰りのある表情を浮かべた。

「君の気持ちはわかった。しかし私の一存では何も言えない」

亨では捌ききれないということで、亨の父である正力松太郎が裁定する話となった。

正力松太郎といえば〝読売興隆の祖〟であり、日本にプロ野球を作った大人物である。戦後は国務大臣、初代科学技術庁長官などを歴任しただけでなく、テレビの誕生・発展にも貢献し、日本のテレビ界の父とも呼ばれる。もはや歴史上の偉人といっても過言ではない正力松太郎がいちプレーヤーの処遇で動くことなど前例がなく、ありえないことだった。

◆「辞めることまかりならん」と一喝。広岡達朗がとった行動は?

正力松太郎から至急面談したいと呼び出しがあり、広岡は日本テレビへと駆け付けた。エレベーターを最上階で降りると、会長室まで続いている長い廊下から荘厳な雰囲気が漂ってきた。ホームのはずなのに、なぜか完全アウェーのような物々しい緊迫感が全身を突き刺してくる。

「コンコンッ」と心情を表すような固いノック音を鳴らす。ゆっくり間を置いてから、パンドラの箱に手をかけるかのように重苦しいドアを開ける。〝もわぁ〜〟と緊張を孕んだ空気が逃げ場を求めて広岡に覆い被さる感じがした。部屋一面には踏み心地良い絨毯が敷き詰められている。視界に入ったのは、戦後の傑物として日本を急成長させた正力松太郎がゆらゆらと妖気を纏うようにしてソファに座わっている姿だった。

圧倒的存在感の正力松太郎を前にしても、広岡は怯まなかった。プロ野球の父と謳われる大人物の圧に屈せずに自然体のままでいられたのは、「巨人の広岡として死ぬ」という不退転の覚悟を携えていたからだ。人間、斬るか斬られるか─。広岡は深々と頭を下げて挨拶をし、正力の命によりソファへと座る。正力の視線はずっと広岡に注がれていた。互いに向き合うと同時に間髪入れずに正力から問いただされた。

「広岡君、きみは巨人軍の広岡として死にたいのだな」
「はい、そうであります」
「わかった。それほど巨人を愛するのなら、辞めることまかりならん」

正力松太郎は大きな声で発した。その言葉には有無も言わさない重みがあった。広岡は飲み込まれそうになったがぐっと堪え、圧を跳ね返すように返事を一旦保留した。正力松太郎はすぐに「川上を呼べ」と亨に命じたが、秋のオープン戦で九州に遠征しているとのことで、後日あらためて川上監督を交えて会食することになった。

◆人生で初めて自分の意思を押し殺す

広岡の気持ちは変わらなかった。いくら正力松太郎に言われたからといって、ここで引退を翻意してしまうと「オーナーに泣きついた」という烙印がついてしまう。トレードがご破算になった川上体制にとっても悪影響が出る。

九州遠征から帰京後すぐ、日本テレビの迎賓館で、正力松太郎・亨親子、球団役員、川上監督、そしてコーチの中尾碩志、南村侑広と広岡とで会食が開かれた。事前に亨オーナーから「親父の命には絶対だから歯向かうな」と釘を刺されている。川上からは「残留する以上、巨人軍の機密事項を外部に漏らさぬように」と残留前提で話をされた。「機密事項を漏らすな」と釘を刺されたということは、週刊誌に手記を書いたことがトレードの引き金になっていたことは明らかだ。

「小せえなぁ」

広岡は心のなかで呟いた。反論したくても亨オーナーとの約束で何も言えない。会食の最中も亨オーナーが「我慢しろ!」と目で合図を送ってくる。会がお開きになる前に「広岡からは何かないか」と問われたが、即座に「何もありません」と答えた。広岡が初めて自分の意思を押し殺した瞬間でもあった。

その後、広岡は引退するという意志を貫くべく、「巨人軍で死なせてください」と再度亨オーナーに申し出たが、保留。そのまま師走に入った。さすがにセ・リーグ鈴木龍二会長、前監督の水原までもが広岡の動向に対して助言をした。広岡の処遇は巨人軍だけの問題に留まらず、球界全体を騒がせる事態へと広がりを見せていく。

「川上に歯向かうのはいいとして、大正力(正力松太郎)の温情を無下にしてはいかん。〝大正力〟だけには絶対に楯突いてはいかん」

両大御所にここまで言われれば、広岡も引かざるを得なかった。こうして広岡は再度亨オーナーのもとへ出向き、「残留させていただきます」と頭を下げてお願いした。だが、当の広岡は釈然とせず、ひどく後悔していた。巨人に残ったことではなく、正力松太郎、川上との会談で何も言わなかった自分に対して憤慨した。

「もし、あのとき意思を貫いていればどうなっただろう……」

たらればを考える自分がひどく卑しい人間に思えてしまった。たった今から、二度と後悔しない行動を心がけようと、固く胸に誓った。

監督である川上からすると、広岡をトレードに出そうと画策していたのに、思わぬ大人物の介入でご破算となって面白くない。品行方正のONと違って、勝負の世界における正義とフェア精神の名の下に思ったことを的確にズバズバ言う広岡が、煙たくて煙たくてしかたがなかった。

自分の利益よりもチームのために突き進むことができる広岡と、己の理想を追求するために他を犠牲にしてまでも邁進する川上。野球を愛する心は川上、広岡ともに同じだったかもしれないが、野球へのスタンスが決定的に違ったのだ。

しかし、正力松太郎の裁定で巨人に残留するものの一度生じた亀裂は埋まらず、広岡は二年後にひっそりと引退する。

【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て2009年8月より沖縄在住。最新刊は『92歳、広岡達朗の正体』。著書に『確執と信念 スジを通した男たち』(扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。

―[92歳、広岡達朗の正体]―

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