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“大洋ホエールズファン”の少年が、最大400人の応援団を結成するまで「1人で一喜一憂するのは寂しい」

日刊SPA! 2024年6月26日 15時51分

「たとえ弱くても応援しがいのあるチーム。私にとってのベイスターズというチームには、そんな魅力があふれているんです」
そう目を輝かせながら話す小島平蔵さん。今年で創設7年目を迎える横浜DeNAベイスターズ応援団「DBワクワク団」(以下「ワクワク団」)を取り仕切っている団長である。

◆当時の横浜は「圧倒的にジャイアンツファンが多かった」

ベイスターズの本拠地のある横浜で生まれた小島さんは、3歳のときに両親が離婚。一度は母の実家のある大阪で生活していたものの、生活環境が合わずに小学1年生の冬に横浜に戻って父と父の祖父母の4人で暮らし始めた。

「横浜は土地柄もあってか、ジャイアンツファンか、横浜大洋ホエールズ(当時)のファンの2択だったのですが、当時は圧倒的にジャイアンツファンが多かったんです。けれども私はAB型の変わり者ということもあって(笑)、大洋を選びました。小学校5年生のときには、近藤貞雄さんが監督で、高木豊さん、加藤博一さん、屋敷要さんの『スーパーカートリオ』に熱中していましたし、エース格だった遠藤一彦さんのピッチングには惚れ惚れしながら見ていました」

◆印象深い大洋ホエールズ“投打の柱”

今でも印象に残っているのは、大洋のエースとして君臨していた遠藤一彦投手がアキレス腱を断裂したときと、ファンだった田代富雄(現:DeNA一軍打撃コーチ)の引退試合だった。

「遠藤投手は当時弱かった大洋投手陣の中で唯一の光でした。その遠藤投手が1987年10月3日に後楽園球場で行われた巨人戦で、アキレス腱を断裂した瞬間は、『うわあ、やっちゃった……』と目の前が真っ暗になったのを今でもよく覚えています。そして、田代選手は、長く大洋の中心打者として活躍して、高々と放物線を描く一撃の本塁打に心踊らされていました。引退試合となった1991年10月10日の阪神戦で、満塁本塁打を放ったんです。この年唯一の安打がこの一打で、田代選手にとっての最終打席となったのですが、『最後の最後まで素晴らしい当たりを打ち続けて、楽しませてくれてありがとうございました』と心の中で感謝していました」

その後、横浜大洋ホエールズは1992年11月に「横浜ベイスターズ」へと改称され、2011年12月にオーナー会社が株式会社東京放送ホールディングスから株式会社ディー・エヌ・エーに変更されたのを機に、球団名は現在の「横浜DeNAベイスターズ」へと変更された。

◆新橋勤務、千葉在住ではハマスタが遠すぎた

一方の小島さんは大学、社会人となって新卒で今の会社に入社して以降、20代半ばから静岡、名古屋、大阪と仕事による転勤が増えてきた。この時期は野球の応援とは一線を画していた。

野球応援に再び熱が入り出したのは、40歳からだった。

「当時はSNSを通じて、ベイスターズの応援をする会に入っていたのですが、そこには会員が8000人くらいいる大所帯のグループに入っていたんです。けれども、このとき私の職場は新橋にありましたから、横浜スタジアムでナイトゲームが開催される日際には、仕事が終わってからでは間に合いません。

それに当時は自宅が千葉にあったということで、試合が終わってから帰宅すると、深夜になってしまう。『これでは体がもたないな』ということで、新橋駅付近界隈にある『三冠王』という居酒屋に、仲間10数人と集まって、お酒を飲んでワイワイしながらベイスターズの試合を観戦する、ということをしていました」

◆離婚を経て、関内に引っ越すことに

その後、アレックス・ラミレス監督が就任した2016年シーズン途中に、現在のワクワク団を結成。初めてベイスターズがクライマックスシリーズ(以下CS)に進出したこの年は、ファーストステージで巨人を破り、ファイナルステージに進出。迎え撃つ広島には1勝4敗で敗れたものの、新橋のカラオケ屋で30人近くのメンバーと応援していた。

「最大400人のメンバーがいたのですが、コロナ禍で応援が自粛されたのと、メンバーの高齢化が進んだ影響で、現在は半数の220人くらいまで減りました」

2017年にはシーズン成績が3位ながら、クライマックスシリーズのファーストステージでは2位だった阪神を撃破。ファイナルステージでも広島を4勝2敗で破って日本シリーズに進出し、ワクワク団の応援はいっそう盛り上がった。

「ちょうどこの頃、私生活で離婚をしたこともあって、千葉からベイスターズの本拠地に近い関内に引っ越しをしたんです。ベイスターズの応援にますます力が入っていきました」

◆各自バラバラで応援する“応援団”。その理由は?

ワクワク団では、横浜スタジアムで開催されるチケットは「各自で確保して、バラバラで応援する」ということをルールにしている。

「さすがに本拠地で開催される試合をすべて見に行くというのは難しいですし、見たい席の場所もそれぞれ好みがありますから、チケットは各自で確保するというスタイルを取っています。ちなみに私が横浜スタジアムで観戦するときには、2019年シーズンからライト側スタンドに新設された『ウイング席』を選んでいます」

定員500人のこの席は、ゆとりがあって広々としている。低い位置からは「外野寄りの内野席」、または「外野席」と同じ感覚で楽しめ、高い位置からはこの席ならではの眺望も満喫できるのが魅力だと、小島さんは話す。

そうして試合が終わると、横浜スタジアムのライトスタンド側にある噴水の近くにメンバーが集結。その後はスタジアムからほど近い「Baseball居酒屋 まるは」で、その日の試合内容について、メンバー全員で語り合うのがルーティンとなっている。

「店内には巨大モニターがあって、その日に行われたベイスターズの試合が流れるんです。得点シーンや失点したシーンを見ては、みんなで盛り上がるのもまた楽しいのです。ときには野村弘樹さんなどの元ベイスターズOBが来てトークショーもあったりと、不定期でイベントを開催したりもするんです」

◆1人で一喜一憂するのは「寂しい」と思った

さらにこのお店で忘年会を開催しているのだが、このときある「イベント」を企画していると話す小島さん。

「不要になったベイスターズグッズのプレゼント会を行っているんです。たとえば3連戦限定で配布されるユニフォームを、3試合すべてに行って3枚もらったとします。すると、『2枚は必要だけど、1枚はいらないな』となったときに、忘年会のときに持って来ていただいて、そこで参加しているメンバーで『欲しい』という人がいたらプレゼントをする。ときにはじゃんけんになったりもしますが、必ず誰かがなにかしらのグッズはゲットできるシステムになっているので、非常に盛り上がるんですよ」

小島さんがワクワク団を結成して以降、コンセプトに掲げていることがある。「点と点をつなげるプロジェクト」というコンセプトだ。

「私も経験したので理解できるのですが、野球応援している人って、基本1人ぼっちが多いんですよ。勝った負けたを1人で一喜一憂する。これって寂しいことだなって思ったんです。そこで『ワクワク団』を結成して、みんなでベイスターズの試合を共有しながら語り合っていく。そうした輪をつなげていって、これから先もベイスターズの応援を盛り上げていきたいですね」

◆応援団のなかに、別の趣味を楽しむサークル活動も

現在、ワクワク団には、釣り部、アウトドア部、旅行部、鉄道部、音楽鑑賞部などのサークル活動も行っている。

「『ベイスターズを応援する』という共通の趣味を通じて、さらに別の趣味でもつながっていく。プライベートでこうしたつながりを持っていくことは、この先もできる限り続けていきたいですね」

昨年オフに左のエース格の1人だった今永昇太がメジャー挑戦で抜けてしまった一方、4月16日に筒香嘉智がベイスターズに復帰することが発表され、彼が慣れ親しんだ横浜スタジアムで再びプレーしている。

「一時期は巨人に移籍かという話もありましたが、彼の雄姿を横浜スタジアムで見られるのは本当にうれしいですね。応援にもいっそう力が入りますし、チームの起爆剤になってくれたらと思います」

ベイスターズの64試合を終えたところでの順位は、32勝31敗1分とセ・リーグのなかで4位(※6月18日時点)。小島さんたちのような熱心なファンの方々の応援を励みにして、この先浮上していくことを期待したい。

<取材・文/小山宣宏>

【小山宣宏】
スポーツジャーナリスト。高校野球やプロ野球を中心とした取材が多い。雑誌や書籍のほか、「文春オンライン」など多数のネットメディアでも執筆。著書に『コロナに翻弄された甲子園』(双葉社)

―[プロ野球の応援団ができるまで]―

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